エネルギー本音トーク

編集 エネルギー本音トーク編集委員会

平成184

 

人類はエネルギーをふんだんに使って、豊かで快適な文明を手に入れましたが、一方ではエネルギー資源の確保は国際間の激しい争奪を生み、戦争の惨禍を招いたことも事実です。発展途上国では、人口の増加と併せて現代文明へのアプローチから、エネルギー需要が急激に膨張して、国際的にもその影響が拡大しています。

昨今の原油価格の高騰と高値の維持基調は、この様な需要の急増に加えて、産油国の供給余力の減退、精製施設の不足、オイルピーク問題、市場の投機性などが重なった構造的なものと指摘されています。またエネルギー消費に伴うCO2排出と、地球環境維持のジレンマも大きな国際問題です。グローバルにエネルギー事情を見れば、各国にエネルギー政策の大きな転換の動きが見られます。ことに原子力発電への期待が改めて急速に高まり、原子力新時代の幕開けを窺わせています。

二度の石油ショックを経験した我国は、備蓄の増強、原子力発電による自給率改善、再生エネルギーの活用、エネルギーのベストミックス、省エネの推進など、エネルギー・セキュリティー確保を目指していますが、未だにエネルギーの80%を海外に依存し、先進諸国の中では最も脆弱な供給構造と言わざるを得ません。国はエネルギー政策基本法を制定し、昨年は原子力政策大綱を閣議決定しました。原子力を基幹エネルギーに位置づけ、核燃料サイクルを推進することを再確認しました。

 私達は、企業・組織から身を引いた立場ではありますが、この様な状況を注視し、我国のエネルギー・セキュリティーの確保と国際協調を願って止みません。私達は立場の違いを超えて、エネルギー供給に人生を賭けて来た者として意見を結集し、国家エネルギー戦略の必要性など多くの「政策提言」をして参りました。しかしながら、それぞれの経験を踏まえた「原子力への熱い想い」、「次世代に伝えるメッセージ」、あるいは「社会への警鐘」などは「政策提言」に盛り込むべくもなく、会員の思いを生々しく本音で吐露することといたしました。ここに「エネルギー本音トーク」として掲載し、諸賢に問うものであります。

 

備考:各稿または全般に関するコメント、ご意見は小川博巳編集幹事まで(下記Email)に連絡下さい。

コメント・意見送付先:chogawa@jcom.home.ne.jp

 


 

目次

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第一章  日本と世界のエネルギー... 3

1.1 『みなで考えよう明日の地球』ーおじいさんの手紙ー (荒井利治). 3

1.2 避けて通れるか原子力土井 彰)... 4

第二章       エネルギー・原子力の国家戦略と政策に関して... 6

2.1 エネルギー安全保証のために自給率50%を目指せ!原子力と自然エネルギーが鍵(石井正則)    6

2.2 戦略性の感じられないエネルギー政策:政策目標と達成レベル(石井正則)... 7

2.3 我が国のエネルギー源は他国任せで良いか?―エネルギー自給率50%の試案―(金氏 顯)    8

2.4 電力自由化のなかでの原子力(山崎吉秀)... 11

第三章  科学技術と地球環境を考える... 16

3.1 「安心」の鍵は何だろう(小笠原英雄)... 16

3.2 技術者の役割 -- Technologically Correct(堀 雅夫)... 17

3.3 原子力施設のリスクに関する考察―リスクの緩和策とべネフィット(石井正則)... 27

3.4 日本人は自らの安全システムを創造する能力が無いのでは?という外人記者の言葉(松田 泰)    52

3.5 今こそ築こう、原子力の安心と信頼を!(安全・安心の現場から)(伊藤 睦)... 64

3.6 原発の安全問題を考える―志賀原発2号の地裁の耐震判決に関連して(石井陽一郎)    122

3.7 原子力安全論での意見交換(石井陽一郎)... 142

3.8 地球温暖化問題と原子力(石井陽一郎)... 162

第四章  放射線を正しく理解しよう... 185

4.1 エネルギー正論「放射線を正しく理解して付き合おう」(竹内哲夫)... 188

4.2 放射線を正しく理解しよう「私(原子力エンジニア)は放射線とどのように付き合ってきたか?」(太組健児)  211

4.3 迷信の根絶:非常識を破る着想と実践記―嫌われた「人形峠残土」を「マホロバ癒しのラドン福音」に!率先実行、魁より始めた“放射線は人間の活性素”(竹内哲夫)... 278

第五章       エネルギーの使い方を考える... 317

第六章  私達の課題を考える... 322

6.1 次世代への伝言“キセル屋原子力屋”の卒業論文(竹内哲夫)... 325

6.2 人類エネルギー問題解決のために原子力技術の伝承を(益田恭尚)... 542

6.3 日本の原子力広報を憂う(森 雅英)... 582

6.4 入学試験問題に“原子力”と“放射線”を!(竹内哲夫)... 598

6.5 エネルギーの国家戦略と 教育を考える(小川博巳)... 620

6.6 子供たちに何を引き継ぐか(土井 彰)... 651

6.7 エネルギー問題を学校で教えよう(荒井利治)... 679

 


 

第一章  日本と世界のエネルギー

 

 

1.1 『みなで考えよう明日の地球』ーおじいさんの手紙ー (荒井利治)

 

シイちゃんへ

おじいさんより

 高校の入試合格おめでとう。おばあさんとトモおばさんはシイちゃんの喜んだ顔を見たいとにこにこで出かけましたが、私は大阪に行く用事があって一緒に行けずとても残念でした。私からのお祝いに図書券をことづけましたので、好きな本を買ってください。

 さておじいさんが大阪に出かけたのは、関西の4っの大学の学生50名位と、おじいさんとほぼ同年代の10名が集まって討論する会『学生とシニアの対話in関西』に参加するためです。討論のテーマは「地球は人々が今のように化石燃料(石炭、石油、天然ガス等)を使い続けて大丈夫か?」でした。

シイちゃんは中学の社会科や理科の授業で、このような話を習ったことがありますか。その答えは『大丈夫でないどころか、かなり危ない。』なのです。

 その理由は化石燃料を燃やしてそのエネルギーで発電したり、自動車を走らせたりすると必ず炭酸ガスが出ますが、これが大気中で多くなると地球温暖化という現象が起こる。そしてこれが地球上の気象をおかしくしたり、極地の氷を融かして海水面が上がり、地面の低い国は水没するおそれがあるのです。

 このような懸念は、実は70年ほど前から一部の学者によって指摘されていましたが、はじめは本当かなと疑う人が多かったのです。ところがその後多くの学者が調査、研究を続けた結果、地球上の平均気温は間違いなく異常な率で上がっている。また大気中の炭酸ガスの濃度も上昇していて、その原因は19世紀の産業革命以降人類が化石燃料を大量に消費していることによると考えられるという結論になりました。

 国連はこの地球温暖化の防止という重大な問題を話し合う国際会議を召集し、1995年ベルリンの第1回から昨年モントリオールの第11回まで毎年相談を続けています。特に1997年の第3回は日本が議長国となって、京都で開かれ、炭酸ガスを主とする温暖化ガスの削減目標を定めた京都議定書をつくりました。ところがこの議定書の各国での承認がなかなか進まないのです。特にロシア、米国という大国が難航し、ロシアはやっと昨年承認、米国はいまだに承認していません。おもな理由は、温暖化ガスの削減が先進国のみに科せられ、中国、インド、アフリカなど人口が多く、今後大量にエネルギーを消費すると予想される開発途上国には科されていないという点です。

 経済の発展、それに必要なエネルギーの消費、それに伴う地球環境の悪化防止、この3つを共に成り立たせるのは大変な難問で、各国とも自国の状況と利益を考えるので、なかなか足並みがそろわないのです。しかも最近は石油の供給量が近くピークに達し、以降減少するという『ピークオイル説』が唱えられ、昨年米国の石油精製施設がハリケーンの被害にあったことで石油価格が急騰したことも重なり、化石燃料の先行きに不安がもたれています。そこで米国をはじめ各国では長らく低迷していた原子力に対する関心がにわかに高まってきました。

 では日本はどうなのでしょう。戦後60年、ドン底から立ち上がり、国民の血のにじむ努力で米国に続く世界第二の経済大国になりましたが、それを支えるエネルギー資源はほとんど無く、完全に輸入に頼っています。しかも輸入先は政治的に不安定な中近東が85%を占めている危うさです。しかしエネルギーの使い方では日本はまさに金メダルで、過去2回のオイルショック(1973と1979に石油の価格が高騰)の際には、少ないエネルギーで効果を出す省エネ技術で克服しました。

 発電の種類も水力、火力から原子力へと多様化し、現在日本の電気は化石燃料による火力が6割、原子力が3割、水力とその他が1割となっています。化石燃料が炭酸ガスを出す犯人ですからこれに代わるものは無いか?自然の力を利用した太陽光、風力、地熱などがありますが、いろいろ問題がありとても火力を肩代わりすることはできません。

 残る切り札は原子力ということになります。化石燃料は化学反応でエネルギーを出すのですが、原子力は核反応によっているので原理的に炭酸ガスは出ません。しかし原子力はその生い立ちが原子爆弾という形で登場したので、どうしても怖いものというイメージがあります。これまでほぼ50年にわたる日本の原子力の開発は、関係した人々の懸命な努力で安全を第一に進められてきました。これまで米国のスリーマイルアイランド、旧ソ連のチェルノブイリのような大事故は起きていません。しかし小さなトラブルでも原子力だと大きく報道される特殊な風土で、原子力発電所の用地は非常に得にくくなっています。一般国民の不安を取り除くには、安全な運転を続けて事実で示す以外に方法が無いようです。

 日本がエネルギーの面で世界に貢献する道は、急激な工業化の過程で発生した公害の対策技術、オイルショックで培った省エネ技術、それにものを大切にする『勿体ない』の精神を輸出することだろうと思います。

それにしてもエネルギー問題に対する国民の関心の低さは異常です。大阪の大学生との討論でもこの危機意識を持つことの重大性と、原子力への更なる取り組みの必要性が主な結論でした。世界の人々が一緒に乗って宇宙を飛んでいる『宇宙船地球号』がこれからも安全に飛び続けるために皆でこの問題を真剣に考える必要があります。

 今日はちょっと判りにくい話になったかもしれませんが、是非シイちゃんがどう感じたか聞かせてもらえるとおじいさんはとても嬉しいのです。

では体に気をつけて楽しい高校生活を迎えてください。

さようなら

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1.2 避けて通れるか原子力土井 彰)

 

はじめに

石油を中心とした化石燃料の時代が急速に去る今世紀、国家、人種を問わず全ての人類は生命と文明の維持に必要なエネルギーと環境を求めなければならない。飽食三昧、レジャー漬けの多くの市民はあまり考えたこともなく、危機感もほとんどない。エネルギー源として、あるいは放射線利用としての原子力を本当に捨てるのか、今まさに市民にその選択が問われている。

 

(1)人類とエネルギーとのかかわり

今世紀の重要課題は、(1)増加し続ける人口を支える経済発展、(2)この経済発展を支える資源と食料の確保、(3)このような条件下での環境の保全でこれらが三竦(トリレンマ)となっている。

人口は今後も増加し続け、エネルギーの大量消費にともなって環境破壊が加速度的に進行すると共に、化石エネルギーの枯渇が問題となる。人類が持続可能な発展をしてゆくには、環境を保全しつつ、限りある環境資源やエネルギーを有効、公平に使用することが必要不可欠である。

人類はここ百年のオーダーで地球が数十億年かけて蓄えてきた化石燃料を使い切ろうとしている。長い年月をかけて地中に固定されてきた炭素等が短期間に放出される影響に加え、人口の増加による森林等の開墾により、地球環境は大きく変わりつつある。

京都における1997年のCOPV会議に於いて、先進国は温室効果ガスの放出量を1990年レベルより5%減少させる削減目標を取り決めた。日本は原子力に大きな期待を持ち、6%を目標としたが、これを達成するには、2010年までに原子力発電所を20基新設するなど、実際問題として実現困難な計画となっている。

 

(2)わが国のエネルギー需要と供給

1)エネルギーの調達

日本のエネルギーの輸入依存度は、全エネルギーの80%以上、ウランを輸入とすると94%、石油に限ると99.8%である。日本の繁栄は安価に輸入できている化石エネルギーの上に成り立っているので、価格の上昇や量の制限等、いったん事が起これば繁栄のすべては砂上の楼閣となる危険性を持っている。

 

2)再生可能なエネルギー(新エネルギー)

再生可能なエネルギーの代表は水力発電であるが、国内における立地可能地点はほぼ開発され、今後多くを望むことは出来ない。

太陽光発電や風力発電には多くの人々が将来の有望なものとして期待しているが、広大な設置面積を要し、かつ、設備の稼働率が低いことなどから、発電量、発電コスト両面で不利な条件下にあり主要なエネルギー源とはなることはできない。

その他の新エネルギーも今後はある程度の導入は見込めるが、それらを加えても、2010年度の一次エネルギー総供給に占める再生可能なエネルギーの割合は12%程度で、エネルギー供給や炭酸ガス問題の解決に大きな期待は出来ない。

 

3)火力発電

火力発電は今後とも相当長期にわたって主力の電源であることは間違いないが、化石燃料はいずれ枯渇することは明白である。今後の課題は、温室効果ガスである炭酸ガス排出量の低減で、発電所の高効率化と燃料の転換がすすめられている。

 

4)原子力発電

原子力は人類が技術でつくり出したエネルギーであり、発電プラントは世界に約500基、国内にも50基以上が稼動している。国内では電力の30%以上をまかなっているが、安全性の確保、放射性廃棄物の処理・処分の難しさ、放射線への恐怖感が原因して国民の合意形成に難しさがある。

日本における原子力発電は、継続的な改良標準化を進め他結果、現在まで大きな事故はなく、世界トップレベルの安全性と稼働率を保っている。今後とも継続的に原子力発電を発展させてゆくには、原子燃料サイクルの確立が必須で、とくにプル

トニウムの利用と放射性廃棄物の処理・処分が重要課題である。

 

(3)放射線の利用

 原子力は核分裂によるエネルギーの利用に注目が集まっているが、エネルギー利用以外に放射線の利用も重要である。

放射線の工業利用としては、半導体の加工、放射線による材料加工、放射線滅菌、非破壊検査などがある。農業分野では、食品照射、害虫駆除、突然変異育種などがあるが、放射線を照射した食品類には国民の理解がなく、有効であるにもかかわらず市場にはほとんど出ていない。技術的に安全性が確認されたものについては、その選択を消費者に委ねるべきである。

 医療の分野では、X線利用の検査診断、RI利用による各種診断、加速粒子線やガンマ線による癌治療などがあり、国民は大きな恩恵を受けている。

 基礎研究の分野では物質の本質の解明に各種の放射線を利用している。

 

(4)まとめ

化石燃料に対する一般の人々の認識は、(1)供給は長期にわたって続き、競争原理があって価格はそれ程上昇しない、(2)環境性にすぐれた天然ガスは埋蔵量も膨大で心配はない、(3)炭酸ガスの削減目標は達成できなくとも大きな問題はない、である。大多数の人々がこのような認識で進むと、トリレンマ問題は深刻度を一層増す。

トリレンマ問題の解決の第一歩は、人類の生存を左右しかねない問題が今発生していることを多くの人が知ることである。化石燃料は有限であり、発展途上国の急成長により、その消費量は急増し、今後各国間で資源の争奪戦になることは明らかで、この結果、価格の高騰にとどまることなく、必要量の入手が困難になる。無資源国日本はいかにして必要とするエネルギーを入手するのであろうか。環境破壊と同等に、あるいはそれ以上に国家の存亡にかかわる問題である。

われわれの将来方向は、(1)今まで通り環境を破壊しながら経済成長し、生活レベルをさらに向上する、(2)生活レベルを下げてでも環境を守る、(3)環境破壊を少し認めながら、現状の生活レベルを維持する、の三つの中から選ぶことにある。いずれの選択をしても、地球環境はすでに再びもとへは戻れず、エネルギー問題も解決しない状態にあるが、少しでも長い間人類が生存してゆく方法はある。

原子力を推進しても原子力は万能ではないので、エネルギー利用、放射線利用ともそれに代わる他のものとの比較で選択すべきである。しかし、現在この選択が冷静になされていないところに大きな問題がある。例えば、原子力はエネルギー利用に際して、長寿命の廃棄物を出すが、その量は一日約4トンで、炭酸ガス300万トン、産業廃棄物110トンと比較すべきである。少量であるが故に長期間安全に保管できる技術的な可能性に多くの国民も理解してほしいものである。

このままでは、今歩んでいる道の数百年前方は人類の終点でさえあるが、この時期の到来は人類の知恵ある行動と技術で遅らせることが出来る。(以上)

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第二章   エネルギー・原子力の国家戦略と政策に関して

 

 

2.1 エネルギー安全保証のために自給率50%を目指せ!原子力と自然エネルギーが鍵石井正則)

 

プロローグ

2037年7月7日。今年も空梅雨か。早くも猛暑の兆しが現れている。

北京の日本大使館に群集が押しかける様子が報道された。日中関係がギクシャクするたびに起こる。盧溝橋事件から100年目ということも拍車をかけているが、異常に激しい。このところ争点となっているのはエネルギー争奪戦である。東シナ海のガス田では、わが国の経済水域内にまたがる採掘が競合し、何かと騒動の要因となっている。常時中国海軍が周辺をパトロールし、緊迫した状況もしばしば報道される。ロシアからのパイプラインも中国への供給量が増大、日本への供給量の減少傾向が続いている。中東の石油も取り合いだ。かつて途上国と言われた国々の発展の勢いの前には、国際間の調整も困難だ。東アジア地区有数の先進国として、リーダーシップを発揮したいところであるが、なにしろわが国自身が主要なエネルギー輸入国であり、調整の役割を果たせないのが実情だ。

政府は緊急に原子力発電の促進政策を進めているが、急場には間に合わない。2000年初頭の新設低迷の影響が大きい。

国民も節約のキャンペーンは聞きあきた。暴動が起きないか心配である。

 

(1)エネルギー自給率の現状

前述の話は決して起こり得ない話ではない。むしろ可能性が高いといえる。

遅かれ早かれ化石燃料はなくなる。その一方、発展途上国の経済成長と生活レベルの向上にともない、エネルギー需要はますます増大する。既に爆発的な増大が見込まれている近隣中国では、これに対処するため、エネルギーの確保にはあらゆる手段を講じるであろう。

わが国は、資源が少なくエネルギー自給率はわずか4%にすぎない。原子力を準国産と考えた場合でも(増殖サイクルも考えると純国産といっても過言でない)自給率は19%である。因みにイタリア15%、ドイツ39%、フランス51%、アメリカ73%、イギリス114%、カナダ154%(イギリスとカナダは輸出国)であり、主要先進国の中ではイタリアの15%とともに最下位グループである(下図参照)。

出展 2005年エネルギー白書

 

(2)予想される事態と自給率向上目標

環境への影響を抑制しながら、急速な需要に供給が対応するのは困難を極めよう。市場経済原理は価格高騰を招くだけだ。少ない資源を公平に配分すること自体が、各国の国益の前には不可能に近い。このような状態ではエネルギー資源の安定的な確保の保証はない。エネルギー面でのわが国の安全保障は極めて脆弱であり、この傾向が拡大する方向であることが懸念される。

これに対処するには、資源の自給率を高め(輸入依存度を下げ)、需給関係から生じる国際紛争やエネルギー価格の高騰等の諸問題を緩和することが必須である。

わが国の自給率の目標としては、同じように資源の少ない欧州諸国(特にフランスはわが国同様の資源小国といえよう)が参考となろう。

実現可能な政策目標としては、50%が妥当と考える。

 

(3)自給率向上の担い手達

わが国は石油の99.8%、石炭の97.7%、天然ガスの96.7%を輸入しており(1)、化石燃料全体としては石油が半分以上を占めるため、自給率は1%にも満たない。自然エネルギー(水力、太陽、風、バイオ等)を加えても4%程度である。この値はフランスの約1/2である。これに原子力の約15%を加えた準国産エネルギーの自給率は約19%でなる。フランスはこの値が約51%である。

原子力と自然エネルギーのほとんどが発電に供されている。従って、エネルギー供給全体の自給率は、ほとんど全部を発電分野が担っていると言えよう。エネルギーフローによると、一般電気事業に供される一次エネルギーは全エネルギー供給の約40%程度である(2)。このため、仮に発電をすべて原子力と自然エネルギーによったとしても、自給率は高々40%程度である。現実的には発電部門の自給率は70〜90%程度が限度ではなかろうか。この場合、原子力で60〜70%、自然エネルギーで10〜20%を分担する必要があろう。これはフランスの事例から十分可能な範囲と考えられる。

これでもエネルギー供給全体の自給率はせいぜい35%程度である。残りの部分は、現在の発電以外の分野に期待する必要がある。特に、化石燃料への依存度の高い運輸や鉄鋼等の産業分野の自給率向上が必要である。動力面における水素や電気の活用は既に開発がスタートしている。熱エネルギーとして直接、または電気エネルギーの活用範囲の拡大による原子力と自然エネルギーの画期的な活用促進策が必要であり、これをぜひとも実現させることが自給率50%の鍵となる。

 

(4)国家百年の計が必要

これらの数値は現在のエネルギー供給量にもとづいている。自給率を50%程度に高めるには、現在の発電分野以外に期待するところが大きいことがわかる。決して容易なことではないが、原子力を主体にし、これに可能な限り自然エネルギーを組み合わせることにより十分に可能がある。様々な技術革新も必要であるが、なにより必要なことは、この重要性を理解することと、原子力に対する不合理な拒絶反応を一掃することである。

原子力船「むつ」の退場が本質的な技術要因によるものでなかったことを考えると、直接動力として原子力を活用することも十分可能である。

期間はかかるかもしれないが、50年〜100年のスパンで考えれば十分実現可能な数値であると考える。安定した国家を維持できる体制の構築は、国家100年の計として取組む重要なテーマである。

 

エピローグ

経済・外交努力により綱渡り状態は依然として続いている。

わが国は太平洋戦争で高い授業料を払った。歴史が繰り返すようなことがあってはならない。国益がエゴにならないように、各国が強調して努力する必要がある。とりわけこれまで大量にエネルギーを消費してきた先進国は、このような事態が生じないような貢献が求められる。これには技術と合理的な思考、および公平な判断が基盤となろう。

このことは、わが国が紛争の当事者ではなく、新しい文明の先駆者となることが求められているということを意味している。このためにも、自給率向上は必須の政策目標である。

 

出展

(1)考えよう、日本のエネルギー、資源エネルギー庁、1999年のデータ

(2)2005年エネルギー白書、主要国のエネルギーフロー(一次エネルギー国内供給22941×1015J、一般電気事業9545×1015Jより算出)

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2.2 戦略性の感じられないエネルギー政策:政策目標と達成レベル石井正則)

 

(1)エネルギー政策の目標に関する考察

エネルギー基本法では、「安定供給」「環境適合」「市場原理」の三つをエネルギー政策の柱としている。然しながら、それぞれの目標の達成レベルが高ければ、目標レベルを同時に満足することができない。

エネルギー基本法では、安定供給と環境適合を十分考慮しつつ市場原理を活用するとしているとしているのは、こういった観点からであろうか。後述するように、経済に留意することは必要であるが、市場原理に委ねるということは無政策を意味している。政策目標たり得るのは前二者であり、市場原理はこれらの政策目標を実施するうえでの枠組みの一つとして意味をもつものであり、他の二つとならべて政策の柱とする程のものではないと考える。

安定供給は、資源の少ないわが国にとって極めて重要なものである。この場合、具体的には「エネルギー自給率の向上」と「供給の多角化」があろう。今日のグローバル化した国際経済にあっては、一地域、一資源の動向が早い速度で他地域、他資源の価格動向に影響を及ぼすことを考えると、自給率の向上を最優先とすべきである。

環境適合については、エネルギー起源の地球温暖化ガスが大きな問題となっており、地域環境の問題も含め、エネルギー使用に一定の規制を設ける必要は論をまたない。

 

(2)政策目標の指標に関して

前述のように、安定供給に対しては「エネルギー自給率」と「エネルギー供給の多角化」があり、環境適合には「温暖化ガス排出量」などがある。

これらの目標は国際間で共通的なものと、わが国固有のものがある。エネルギー自給率と供給の多角化は各国の事情により相違するもので、特にわが国の場合、先進諸国のなかで最低レベルである。かつての太平洋戦争がエネルギー資源に起因したことを考えると、まず自給率向上を最優先とすべきであり、その目標値も高ければ高いほどよい。現実的にも、先進諸国のなかで少なくとも中程度のレベルを目指すべきと考える。

環境適合、とりわけ地球温暖化は地球規模の問題であり、国際的な協調のもとに進める必要がある。先進国の一員としてこの問題を積極的に解決してゆく努力は必要であるが、わが国が国際間の調整とは無関係に独自の目標を持つ必要はない。京都議定書や今後議論される京都議定書約束期間終了後の目標に従えばよい、

先に市場原理は政策の柱とする必要がないと述べたが、わが国経済が国際競争力を失うことがあってはならない。安定供給と環境適合の実現においては、経済の国際競争力を維持するための対策が必要である。国際競争力が維持されれば、一定のレベルの国民生活も維持されるであろう。

 

(3)政策目標設定プロセス

これらの政策目標の設定にあたっては、目標の達成レベル、達成期間、実現可能性等を含め、様々なトレードオフが必要となろう。自給率は高ければ高いほどよいにしても、実現可能性、環境問題との関連、国際競争力等の面で限界があろうし、国際的な調整の場で決まる環境目標にしても同様である。

このようなトレードオフのプロセスは、科学に立脚した論理的なものである。将来予測には不確実性も伴うので、いくつかのシナリオができるであろう。これらを明らかにすることにより、説得力のあるエネルギー戦略が確立するものと考える。

なお、国家100年の計のような超長期的な目標としては、ありたい姿を明らかにすることが重要である。私は、こういった点からエネルギー自給率は50%程度を目標とすべきと考えている。その詳細は別項に示す。

 

(4)おわりに

エネルギー基本法に示された政策目標そのものの問題点とともに、目標達成レベルのあり方について述べた。

更に政策策定プロセスのあり方についても述べたが、現在、わが国のエネルギー政策の策定や具体化(例えば資源エネルギー調査会における議論など)では、このようなプロセスを伴っていないように見受けられる。目標の提示や決定に関しては政治的な面が大きいが、その検討プロセスは(トレードオフなども)科学的、論理的なもので、多角的な分析・検討が必要である。省庁の枠組みにとらわれない、総合的な政策決定を行なう機関が必要であり、その設置を強く期待する。(以上)

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2.3 我が国のエネルギー源は他国任せで良いか?―エネルギー自給率50%の試案―(金氏 顯)

 

(1)原油高騰でも原子力のおかげで何とかパニックは回避、しかし油断大敵

最近、石油資源枯渇に伴うピークオイル説が近々現実のものになるとの予測がもっぱらだ。石油資源枯渇が主要因で旺盛な需要に供給が追いつかず昨年来60〜70$/Bに高騰し高止まりしている。しかし30年前の石油ショックの時のような経済的社会的パニックには陥ってない。我が国は石油ショック後に経済成長に伴う電力需要に応えるために原子力発電所を全国各地に多数建設した。そのために石油依存度は電力で見ると50%から10%程度に、一次エネルギーでは70%から50%にまで低下している。石油備蓄効果もあるが、ほとんどが原子力のおかげで、何とか第3次石油ショックは回避できていると言える。しかし、一次エネルギーの大半を頼っている化石燃料はほぼ100%海外からの調達、しかも石油の90%は政情不安定な中東であり我が国は常に石油危機に晒されていると言っても過言ではない、文字通り油断大敵だ。

 

(2)エネルギー自給率は先進国で最低レベル、このままで良いのか

エネルギー源確保は、軍事防衛力確保、食糧確保と並んで国家を維持し国民を養うための国家としての最重要命題である。アメリカ、中国、インド、欧州各国などは自国内に豊富な石炭や石油資源を有していながら、世界の石油、天然ガスの資源確保に国家を挙げて奔走している。イラク戦争も米英の石油確保が隠れた目的と言われ、ロシアの天然ガス移送問題でウクライナ、更に欧州が危機感を募らせ、日本近辺でも東シナ海石油採掘を中国が我が国国境を侵してまで強行している。マスコミでこのようなエネルギー争奪に絡む国際ニュースが報道されない日は無い。海外の化石燃料資源特に中東が頼りの石油、天然ガスの争奪戦は軍事力を含めた国際交渉力が脆弱な日本にとってはかなり厳しい。そこでエネルギー自給率を増やすことが時間はかかるが急がば回れで、エネルギーセキュリティのもうひとつの有力な選択肢になる。手ごわい相手のある化石燃料争奪よりも自国の努力で実現できる自給率向上のほうが確実だ。まして、石油、天然ガスはエネルギーとして燃やすと環境破壊、地球温暖化の原因になるが、衣類、建築材料、家具、自動車構造、電化製品、スポーツ用品、など身の回りのありとあらゆる材料の資源でもあり、むしろこれらの為に確保すべきである。

さて、我が国のエネルギー自給率は先進国(G7)の中でも最低の4%でありそのほとんどは水力だ。しかし、原子力の燃料となるウランは一度輸入されると原子力発の燃料として数年使用され、また再処理するとさらに数年利用できるため準国産エネルギーとして扱える。現在日本には全国で53基の原子力発電所が稼動しており電力の約35%、一次エネルギーの16%をまかなっている。このおかげで自給率は20%になり、かろうじてイタリアの15%よりふえる。しかし、ドイツの39%、フランスの51%よりかなり低い。近未来に確実に到来する石油、天然ガスの枯渇、それに伴う国際的資源争奪戦、それと地球温暖化問題を考えると、化石燃料にばかり頼らないエネルギー自給率向上は緊急的かつ中長期的命題であり、次の理由から原子力発電の更なる推進、即ち原子力発電所の新規建設の推進をその柱とすべきであると考える。

@      エネルギー転換比(EPR)が最も高い、即ち取り出す為に費やすエネルギーに比べ取り出されるエネルギーが最も大きいのは原子力である。ちなみに、EPRは水力の15、風力の4、太陽光の1、地熱の7に比べ、原子力は50である。

A      水力は開発地がほとんど残されてない。風力や太陽光は小規模分散電源としては良いが、膨大な敷地面積、低い稼働率、膨大な建設コストなどの面で大規模電源としては不適である。色々と助成策を講じ頑張ってもせいぜい一次エネルギーの2〜3%であろう。

B      軽水炉原子力発電の設計、建設、運転管理技術は成熟しており、発電コストも化石燃料発電で最も安い石炭火力に比べても安く安定している。

C      ウラン資源は現状確認埋蔵量は約70年だが、未発見資源の期待は大きく、更に再処理+プルサーマルで1.15倍に、高速増殖炉が実用化されると100倍以上、即ちほぼ数千年利用できることになる。

D 化石燃料でも石炭は埋蔵量が約200年と長く、輸入国もオーストラリアが半分、あと中国、インドネシアなど中東に比べ比較的政情安定した国々からの輸入である。発電コストも原子力に次いで安い。問題は排気ガスだが亜硫酸ガス、硝酸ガスは国内はほぼ完全に除去対策設備をつけている。問題は炭酸ガス、即ち地球温暖化の点では一番問題なエネルギー源である。現在日本の一次エネルギーの22%を占め、石油に次いで多い。この排気ガスから炭酸ガスを回収し地層に固定貯留するという技術があり、日本はこの分野の先進国であり実際に試験などしている。問題は経済性と確実に貯留できる地層の存在である。まだ実用化検討中という段階だが、将来これが商業的に実用化できれば“自給”エネルギーではないが、原子力と並んでわが国の有望なエネルギー源となる。また石炭ガス化という技術もあり、こちらのほうは既に商用発電所を建設中である。炭酸ガスがやはり地球温暖化の点で問題である。

 

(3)エネルギー自給率50%を国家目標に

現状20%のエネルギー自給率を、国家100年の大計として2100年までに、ドイツ、フランス並みの40〜50%にすることを我が国の国家目標とすることを提言したい。2100年は余りにも長すぎて現実感が無いので2050年でも良い。現在一次エネルギーに占める電力化率は42%(2001年度)だから、発電を全て原子力にするのに相当するが、これは非現実的なので、例えば電力化率を70%、電力の中の原子力化率を55〜70%とすれば、エネルギー自給率は38〜49%と、ほぼドイツ、フランス並になる。これからの論旨を単純にするために、『2050年までにエネルギー自給率を50%にする。そのためにエネルギー消費に於ける電化率を70%に、電気の70%を原子力にする。』を国家目標数値にすることにしたい。

 

まず、電化率の向上だが、以下のような方策が考えられる。

@     まずエネルギー消費の約25%を占める運輸部門の80%が自動車で、現在はほぼ全て石油製品を消費している。これを電気自動車、またはプラッグインハイブリット車(夜間電力で充電したバッテリーで走行、走行中に一部エンジンで発電)に変換していく。バッテリーの性能の向上は急速に進むと予想されるので普及は早いだろう。また水素燃料電池自動車が実用化されるなら原子力(高温ガス炉、高速増殖炉などで熱化学反応による水素発生は日本で開発中)で発生した水素を利用できる。また都市市街の自動車乗り入れ制限、電車化は既に欧州各都市で実現しており日本でも路面電車の復活などにより推進する。これらの技術開発、施策により、原油の益々の高騰、バイオマス燃料普及なども追い風となって2100年(または2050年)までには陸上運輸部門ほぼ全て脱石油を目標とする。海運も原子力船むつの成功体験が伝承できる今の内に商船への原子力推進実用化を再検討するべきである。ますます希少となる石油は航空運輸に重点的に充てることになる。

A     民生部門は業務用も家庭用と併せてエネルギー消費の約30%で、最近急速に電化が進んでおり現在いずれも40〜50%だが、今後更に住宅やビルなどの新築では電気代の優遇などでオール電化を更を普及するなど、電化率70〜80%を目指す。省エネルギーも更に推進する。

B     上記@、Aは夜間電力、週末電力、冬季電力の拡大になり、ベース電力としての原子力の有利性を益々生かせることになる。

 

次に発電に占める原子力化率を現状の35%から70%にする事は発電所建設の観点からどのような規模になるのか検証してみたい。現状に比べ電力需要は経済の緩やかな発展、省エネ、人口減少などによりほぼ横ばいと想定すると、電化率で1.7倍、原子力化率で2倍、併せて3.4倍、即ち原子力発電容量を現状の4700万KWから16000万KWに増加すれば良い。上記Bでピーク電力率が低下することが期待されるので、実際には電力容量はもっと少なくて良いかもしれない。まず現在運転中の原子力発電所の稼働率を現状の80%弱をアメリカ並みに10%向上することは必須であり、官民を挙げて取り組んでおり早晩実現できると考える。これで約500万KW分賄うことが出来る。次に現在の発電所は60〜100年の寿命がきたらリプレースとして建替える。そのときに出力は現状最大の約150万KWにする。これで約3200万KW増加、併せて3700万KWの増加となる。残りは7600万KW,150万KWの原子力発電所51基を新設するということになる。リプレースと併せて104基、年間平均でほぼ2基づつというペースであり、これはこれまでの53基を約40年間、特に1980年代には年間4〜5基で建設してきたことを考えると不可能な数字ではない。2050年まで成熟技術で実績のある軽水炉(PWR,BWR)を建設する。勿論、安全性、耐震性、経済性を改良した設計は必要に応じて取り入れるのは構わないが、炉心など実証性が特に要求される核心的な部分は変えるべきではない。なお、2050年以降は高速増殖炉も徐々に増やす。また水素発生の需要に併せて必要な場合は高温ガス炉も投入することになる。

 

(4)地球温暖化ガス削減効果

原子力を推進するもう1つの積極的な意義は炭酸ガスを本質的に排出しないということである。周知のとおり、昨年発効した京都議定書で日本は1990年の温暖化ガス排出に対し第一約束期間である2008〜2012年には6%削減することを義務付けられている。しかし2002年実績では削減されるどころか逆に約8%も増加、その要因はエネルギー起源のCO2が10%も増えたからに他ならない。この時に政府が立てた2010年目標達成シナリオはエネルギー起源CO2を何とか頑張っても1990年レベル並みにまで削減するのが精一杯であり、森林による吸収で約4%削減し、残り約2%を京都メカニズム適用で何とか6%削減目標を達成しようという苦しいシナリオである。元々、1997年京都会議当時は原子力の新規建設計画がかなりあったので6%削減は何とかなる、という楽観的な見通しだった。しかしその後電力需要低迷、自由化などで新規建設が軒並み先送りや取りやめとなったのが大きな誤算である。元々地球の温暖化をストップするには今の5%削減では全く駄目で、増加の勢いが急なので50%減位の思い切ったブレーキを踏まないと駄目だと言われている。

さて、本論のように電化率を42%から70%にしこれを全て原子力で達成した場合、どれくらいのCO2削減になるかは、どの自動車や設備の燃料を削減するかによるので正確な推定は難しい。ここではかなり大まかに計算してみる。2002年度のCO2発生量の部門別集計があり、運輸は全発生量の21%、内間接発生分即ち既に鉄道電車など電化している分はわずか1%である。輸送の一部には石炭や天然ガスを使用しているが大部分は石油でありエネルギー消費とCO2発生は比例すると考えても大きな誤差は無いだろう。輸送の80%を占める陸上輸送の大部分を前述3―@のように電化出来れば(一部はバイオ、非化石燃料起源の水素などでも同じ)CO2も80%削減できるとして、CO2排出割合は現在20%(21−1)だがこれが4%(16ポイント削減)になる。次に民生であるが、前述の2002年度のCO2発生量の部門別集計では業務と家庭と併せて29%、内既に電化されている部分は16%と多い。運輸と同じく非電化分の大部分は石油と考えこれを前述3−Aのように70%更に電化できれば現在13%(29−16)が、4%(9ポイント削減)となる。すなわち、CO2発生量は1990年度を100とすると、2002年度実績は108%、これが25%減で81となり、これに現目標の−6%を加味すると76になり、24%削減となる。これは現在の6%削減に比べ相当に大きな規模である。地球温暖化対策はその名の通り地球規模の事象であり、米国、中国、インドなど現在、また将来排出の多い国々が京都議定書を批准してないかその責任が無いのは大きな問題である。地球大気中の炭酸ガス濃度は100年以上前は280ppm、現在370ppmまで上昇し毎年1.5ppm増加している。気温の上昇が2℃以内であれば何とか危機的状況は免れるとのことだが、それには450〜550ppmが危険レベルと言われておりこれに達しないようにするには炭酸ガス発生を削減していく早さが問題である。日本が2050年までに1990年比24%削減することではまだまだ足らないと思われる。社会システムや生活形態など別の面からの根本的な対策が必要であるが、有効な対策の1つとしては評価できるだろう。

 

(5)原子力発電推進の課題と対策

上記のように原子力発電を国策として強力に推進するには電力需要の低迷、電力自由化、原子力立地の困難さ、既存原子力の信頼性安全性、高レベル廃棄物最終処分地の確保、原子力技術力の維持、第2再処理施設、高速増殖炉商業炉開発など多くの障害がある。主な課題とその対策、その見通しなど列挙してみたい。

@     電力需要の増加は今後大きな経済成長率が望めないので、前記3の@、Aで述べたごとく、現在石油に頼っている陸上運輸部門の電化の推進と民生(業務、家庭)の電化率向上が大きな2本柱である。運輸部門の電化は各方面特に自動車搭載バッテリーの性能向上、長寿命化、小型軽量化などの技術開発と普及に伴うコスト低減、社会インフラ整備が肝要で、原油枯渇&価格高騰が大きな追い風となる。民生の電化率向上にはオール電化住宅の優遇措置、電化機器のコスト低減などが既に推進されている。

A     電力自由化の問題だが、経済的優位性、地球温暖化ガス排出ゼロの点の2点で原子力は他の電源に比べ優位であり、自由競争の時の電気料金にはこの点でIPPとは明確な差をつけないと公平な競争とはいえない。こうすることで電気料金の有利な分を内部留保し初期投資額の大きい原子力発電所の建設費を積み立てる方策とする。最近この優位性を認めないという決定が出たが、これは原子力推進を国策とする場合早晩見直すべきである。

B     原子力立地の困難さは最も難しい課題であり、芦浜、巻、更に最近の久美浜、珠洲など、永年候補地としてきた箇所がつぎつぎ断念せざるを得ない事態になっている。しかし、現在の立地点20箇所(計画中含め)には東通や敦賀、美浜を始めまだ増設のスペースがあるところが多い。これらの地域はおおむね地元との関係も良好であり、地元振興にも貢献するのでリプレースと共に増設の賛同は得やすいと考え、これら既存の地点で新たに各2基、計40基は不可能ではないと考える。しかし敷地面積形状から、また地元との関係から増設困難な地点もあろうから新規地点を今後数箇所、候補地点の了承も含め、確保したい。道州制とも相俟って消費県と立地県の利害が一致する体制になれば立地には追い風となると期待したい。

C     既存原子力の信頼性安全性は長年取り組んできたがいまだ一般社会から十分には認められてない。これまでのトラブルの猛烈な反省から原子力業界の情報透明性は随分と改善されたが、高レベル廃棄物最終処分や最近の耐震性問題など、社会の不安に対しこれからもキチンとかつ迅速に対応することが必要である。これまでややもするとこれらの対応に政府の責任、即ち官の規制強化が主体になってきたが、アメリカでの原子力発電の稼働率向上など好成績が官民の規制の良いバランス関係であることに鑑み、わが国でも昨年日本原子力技術協会が発足、また今年は日本原子力産業協会が発足し、民間側の自主規制を強化する動きを具体化しているので、官側ともうまく連携し稼働率向上など大いに期待したい。

D     さらに原子力の信頼性安全性はそれを伝達し理解してもらう努力も大いに必要であるが、マスコミや学校教育にも正しい知識、情報をキチンと国民に伝える責任がある。この点ではこれまで新聞やテレビなどのマスコミ報道、初等中等学校教育に大いに問題があった。マスコミ関係者、学校教育関係者には、まず原子力と原爆の違い、自然放射線や医療での放射線を正しく理解していただき、また原子力を原爆やチェルノブイリ事故など負の側面だけで論じるのではなくエネルギー問題や地球環境問題の一環として広い目で見ることを求めたい。その為に大いに勉強して頂かなくてはならない。その機会を原子力業界はこれまで精力的にやってきているが、今後更に増やすべきだろう。その点で米国同時多発テロ以来日本の原子力発電所はテロ対策に注力しているがその余波で発電所の一般見学という「百聞は一見にしかず」の貴重な機会がなくなったのは残念であり何らかの方策により再開して頂きたい。

E     高レベル廃棄物最終処分地の確保も悩ましい問題である。現在地方からの公募を募っておりこれまでいくつかの地域で誘致の動きがあったが実現して無い。技術開発、検証はもとより広報活動、優遇措置など相当な努力をしておりこれを継続し、積極的に国家政策に協力しようという地方が出て来る事を望みたいし、国策として国ももっと積極的な応援を望みたい。

F     第2再処理施設と高速増殖炉実用化は、昨年の「原子力政策大綱」で再処理、高速増殖炉商業炉の路線が閣議決定されたこと。更に前者が現六ヶ所再処理の最終試験開始、来年操業の見通しが得られMOX燃料工場建設も合意に、また後者には10年間の中断をようやく脱し改造工事開始し、運転再開への道が開らけたことで今後はスムースに進むことと期待したい。

F.原子力の技術力維持も心配である。現在新規の原子力プラント建設計画が先細りのため、電力もメーカー(土建、プラント、機器、電気計装、弁、補機など広範囲の産業界)も特にプラント設計、建設、原子力特有機器の技術屋が激減しようとしている。団塊世代退職の2007年問題は原子力分野に顕著である。運転保守管理、燃料設計製造、長寿命化の為の機器取り替え需要で重機器、電気計装(デジタル化)の設計製造や耐震設計など一部の分野では問題は少ない。しかし、プラント全体の計画・設計(土建、系統設計、配管配置空調など)、またプロジェクトマネージメント、は特に問題である。電力、メーカー企業は団塊世代が定年に達しても優秀な社員は雇用延長、関連会社移籍などで何とか技術力を維持しようとしているのが実情である。原子力特有の高度な技術技能、品質、精度が必要な機器部品メーカーの中にはその事業から撤退するところも出てきている。技術は人と組織に依存するので一旦消滅、撤退したらその技術は二度と復活できない。将来必ず到来する既存発電所のリプレース需要の為にも、プラント新設計画が現状のように先細りでは日本の原子力技術力の維持は誠におぼつかない。本末転倒ではあるがこのためにも団塊世代がまだ働け、かろうじて組織を維持している今、計画的連続的な新設プラント建設は必須である。

 

以上、エネルギー自給率を現在の20%から50%に2050年までに2.5倍向上させることにつき試案として述べた。色々と課題は山積しているが、数字的に不可能ではないという確信をもった。昨年閣議決定された『原子力政策大綱』では、原子力の電力に占める規模を将来に亘って現状の30〜40%以上と、“以上”と書いてあるがどちらかと言うと現状維持の方に力点をおいた書き方になっている。原子力委員会という枠組みでの政策だから致し方ないとは思うが、21世紀における深刻な世界的規模の石油資源争奪戦と地球温暖化への対応として、大げさかもしれないが誇張して言えば“日本が国家として存続するために、エネルギー自給率を2.5倍にそのために原子力発電を約2倍に増やすことは、非常に有効かつ必須の国家的施策”である。グリーンピースの元共同設立者の一人パトリック・ムーアや、「ガイア理論」を提唱したイギリスの科学者ラブロックなど、今まで原子力に反対の人たちが、化石燃料による地球環境問題と石油資源枯渇問題の解決には原子力以外に無いと、原子力賛成に回った。欧米で中国でまたインド、東南アジア、ロシア、南アメリカ、南アフリカで、即ち全世界で原子力建設推進計画が具体的になりつつある。世界は大きく変化している。国際協力の観点からも原子力先進国でかつIAEA優等生国である日本だけにこれから先細りというわけには行かない。国際的な協力の枠組みの中で国内諸課題解決が容易になるという期待もある。また原子力平和利用技術先進国である日本は国際協力の点から米国を始め各国から大いに期待されている。原子力を推進することは近年我が国若者の理科科学離れ、学力低下の歯止め、土建業や重機械製造業など裾野の大変に広い我が国産業界の回復にも繋がる日本全体にとっての国力回復の大きな施策にもなると思われる。(以上)

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2.4 電力自由化のなかでの原子力(山崎吉秀)

 

(1)電気事業のツールとしての価値

電力供給に要求される基本的3条件 供給安定性、経済性、環境適合性に照らし、原子力が本質的に勝れた特性をもっていることは、今までにも度々紹介されてきたところである。

最近のエネルギー市場の国際的動きのなかで、一層このことが際立つことになってきていると思う。

化石燃料に目を向けると、石油が新規油田開発のピークを超えたと言われ、投機筋の動きも相俟って価格が高騰高止まりの状況に置かれているし、天然ガスも環境問題のこともあって、石油・石炭からのシフトによってやはり価格が高騰する傾向にある。価格競争力や、供給不安といった懸念を持たざるを得ない状況下にある。石炭は生産地が世界に分散され資源量も豊富なことから、比較的安定した価格水準を維持しており、貴重な選択肢であるが技術的な対処が大変難しい環境への炭酸ガス問題についての不利な条件を抱えていることに変りはない。また、北海油田の生産量の目減りや、ロシアからのウクライナへの天然ガス供給の一時停止問題などを見るにつけても、エネルギー、とりわけ我々にとって電力供給面での戦略の重要性を身近に感じざるを得ない。

電力自由化のなかで、特に気になる原子力の価格競争力について少し触れてみたい。

平成16年電気事業分科会から公表された電源別発電単価は次のとおりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


   水力     11.9円/kWH           主要条件

  石油火力   10.7    〃        運転年数   40年

  LNG火力    6.2     〃        設備利用率  80%(水力45%)

    石炭火力   5.7     〃       燃料価格  石油  27.4$/バーレル

  原子力    5.3     〃                      石炭  35.5$/トン

                            LNG     2.8 万円/トン

 

原子力の発電原価には、よく話題になるバックエンドの再処理や再処理設備の廃止費用も含まれ、また高レベルの廃棄物の処理、処分費用も含まれており、それでもなお競争優位性を持っていることがうかがえる。先ほどの国際情勢のなかで、石油・天然ガス価格が大きく押し上げられているなか、益々有利な方向にあるともいえる。

ただ、日本の原子力は数年前まで設備利用率は80%を超えて安定して推移する時期が続き、世界に冠たるものであったが、昨今、事業者の不手際も重なってこの水準を割り込んで低迷している。一方、米国・ヨーロッパ・韓国などで軒並に90%以上の設備利用率を安定して続けている最近の実態を見るにつけ、我国に本質的課題があることを認識せざるを得ない。同時に米国という石炭・天然ガスに豊富に恵まれている状況下にありながら、高稼働率をベースに、これ等に引けを取らない経済競争力を維持している事実からしても、原子力が電力自由化の厳しい環境下でこそ、電力供給の強力なツールとなりえるという確信を持つことができる。

ここで現在、我国が抱えるいくつかの課題について述べてみたい。

 

(2)課題と解決への道すじ

1)事業者の足元固めと信頼回復

東京電力や関西電力等、近年の失敗に学んで、事業者の足元固めのため、技術力の維持強化や企業倫理に係る体質改善に大変な努力が続けられている。具体的内容は公表もされているので、ここでは触れないが、その成果が本物として顕在化してくることを期待する。いずれにしても、地道に実績でもって示し続けることしか道はないだろう。そのことが信頼回復への王道であるし、設備利用率回復への原点でもある。電力自由化のなかでのツール云々以前の問題である。

 

2)合理的規制への転換

我国の近代産業分野においても、その成長・発展は御上の規制色の強い主導によるところが大きいことは、さして異論にないところであろう。このため、世間は体質的に御上への信頼・期待・依存と一言では表現しにくいが、そのような心情が常に強く働いているのではと思えてならない。電気事業者の原子力においても、トラブル発生の度に当局の規制・監督が十分で足りていたのか、と取り沙汰され、特に地元自治体の追及はことの他厳しく、マスコミもこれに同調するかのよう煽る。

これを受けるような形で、当局は規制の範囲の拡大やルール・マニュアルのより細かい整備(?)、取り決めを求めてきた。このため現場の実態としては、膨大な書類に埋もれてそのフォローや整理に忙殺、いわゆる現場に出向く時間が制約されてしまうことにもなっている。このことが、技術力の低下や自主の気概の喪失あるいは物事の本質を見失うといったことで、トラブル発生の誘因にもなってきている。本来現場の担当者は、現場に出向いて機械設備の状況に触れ、その実態を肌で感じ、トラブルの未然防止や発生時の適切な処置を行うのが本来の姿の筈。そのことが技術力の維持にも繋がってゆく。

考え方が主客転倒としてきているように思えてならない。

また日本では定期検査という年1回長期間をかけ、主要機器の分解点検する特有の制度を踏襲してきている。この制度があるからこそ、日本は世界でトップレベルの運転実績をあげていると主張してきた。ところが今や、先にも触れたように外国が90%を超える安定した設備利用率を続けている現実で、後塵を拝することとなっている。定期検査という制度がなくても、安全や信頼性の高い運用ができるという証がそこに存在する。

そもそも当局の原子力発電事業に対する規制とは何かと問われれば、万人に対する安全確保と電力供給信頼度を維持・確保させるためといえるのでは。ならば過去のトラブル事例で、規制を強化しなくてはこの狙いが達成できないといったケースがどれだけあったか。ここは世間の風当たりより冷静で客観的な工学としての判断が求められるところであろう。殆どの場合、事業者の自主の心がけの問題で規制の仕組みに欠陥があって、これを細かく手直ししなければといったケースはそれほどなかったと思う。

いずれにしても、我国の原子力発電産業が成熟したとはいわないが、このあたりで規制と自主の程よい組み合わせがどのあたりにあるか、外国の事例も参考にしながら事業者も入れて徹底的な議論評価を加え、合理的に安全と供給信頼度を確保する日本流の方式を編み出さないと、世界から取り残されてしまう危機感を覚える。そして電力自由化のなかでの強力なツールとしての存在価値さえ失うことになってしまうことになるのでは。

 

3)地元との協調関係

原子力の新規立地、増設、新しい技術の導入あるいは日々の運用において、地元の理解なくして円滑に事は前に進まない。電力自由化のなかにあって、地元との良好な信頼・協調関係構築という課題こそが最重要のもとのなってくる。発電所の運用面で、ここ数年を振り返ってみるに、一時機器の故障や人的ミスでのトラブル発生時にも地元や国でも比較的冷静・迅速に処理して我国全体の設備利用率も80%を超えて安定した時期に入っていた。ところが近年事業者の重大な過失や悪質とも取られる大きなトラブルを発生させ大きく信頼を失墜させることになると共に、これからの電力自由化という厳しい現実下では致命的ともなりかねない稼働率を大きく引き下げる結果ともなっている。この例に見るまでもなく、地元との良好な関係を構築するうえに大前提があることを片時も忘れてはならないであろう。

地元にとっては、常に地域振興に対する渇望がある。具体的には、インフラの整備、地場産業の発展、雇用の促進等である。原子力は規模が大きく投入資金も大きいだけに期待も大きい。そしてこれを取りしきる首長さん・議員さんがいて、いずれも地元民の選挙によって選ばれている。地元民は自分達の選んだ代表がどれだけ地域振興に努力し成果を上げているかを常に注目している。

こうした構図のなかで、電力安定供給を志向し、地元理解を得るため、電気事業者として、国策にからんでは国とも手を組みながら表舞台で、裏舞台でもがいてゆくことになる。当該市町村レベルでは求められる規模も限られることもあって、事業者との間だけで結論を得られる場合が多いが、県レベルになってくると大変難しいことが起こってくる。規模が大掛かりになってきて新幹線や高速道路の誘致といったことになってくると、これは一事業者には手に負えない。直接手が下せないものには、国に対する要求に間接的に支援や仲介に誠意をもって対処しなくてはならない。こうしたなかから良好な関係が生まれてくるがそのために事業者が心得るべきことを例示してみたい。

 

     日頃幅広い階層にわたって地元の方々との信頼関係をつくり上げておくことはいうまでもない。そのためには関係者がどれだけ日々自分の時間を犠牲にしてでも行動しているかが問われる。

 

     地域振興にどれだけ貢献できているかの実態をよくよく把握しておくこと。交付金や税収など国や地方の制度のなかでどれだけ寄与できているか。地場産業への貢献、雇用面や資機材の調達等でもどれだけ寄与できているか。具体的データでもって実状を地元に知ってもらっておくことも大切である。特に県レベルになると思いのほか県民(代表の議員でさえ)には十分認識されていないのではないか。

     世界的エネルギー事情のなかで、日本のエネルギー政策として、その中での電力安定供給を担っての役割。国・地元・事業者が求められる役割・分担に信念をもった論理でもって日頃から接する人々、特に首長、議員さんとは会話を通じ共通認識としておくことが肝要。

 

等々、いずれにしても日々、しっかりとした見識をもって、地道な誠実な行動の積み重ねを心がけるしか道はないといってよい。

 

4)バックエンドに民間はどこまで手を出すべきか

原子力発電事業のなかに一部でも国営という考え方は、自由化のなかにあるからこそ選択すべきではないのでは。

再処理事業については、日本での第一再処理工場を見る限り、反省点は多いがフランスの実績という手本もあるし、十分商売ベースに乗り得るものである。高レベルの廃棄物処分についても、立地点取得という大変難しい課題を残しているが、そこをクリアすれば技術的な内容はシンプルであるし、費用面でも先般長計策定時に議論を尽くして試算もされた通りで、十分商売ベースに乗りうるものである。しかも大きな商売規模である。いずれにしても民間事業として手放すべきでないと考える。

ただ日本では、先ほども触れた地方自治体との関係などもあって、計画通りに事が運ばない場面に出くわすことがある。全く予測できない費用がかさむことがあり、この不透明さが電力自由化のなかにあって経営の志気をそぐことになりかねない。経営者は、商売としての面白味があれば苦難にも積極的に取組むのは当然として、自らの努力でどうにも対処しようのないところで生じた費用については、国として救済の手立ては立てておく必要があると思う。そのことが困難に立向かう大きなインセンティブになろうから。

 

5)原子力の初期投資に伴う費用

建設費としての所期投資が大きいだけに、当初のキャッシュフローが経営収支に大な負担としてのしかかってこないか。自由化のなかにあってそのことが投資意欲をそぐことにならないかという問題がある。新規建設に当たっては、当初年間数百億円のレベルの負担になろうが、これは数年先を見通すといった視点では確かに経営収支に見劣りのする数字が出る可能性もあるが、さらにその先を見越せば強力なツールとしての姿がすぐに見えてくる。比較的規模の小さい電気事業者にとっても、昨今の経営体力からすれば戸迷うほどのこともないであろう。また、環境問題に係っての外部コストが評価されるようにでもなれば、一層楽になってくるであろうし。負担を重く感じるのであればこれを軽減し、需要面でのバランスも考慮して、共同開発といったことも有力な選択肢となってくることも考えられる。

 

6)最適電源構成

資源の乏しい我国にとってエネルギー戦略は喫緊の課題である。エネルギー消費のなかで40%を超えるシェアーを負う電力供給においても、ことの他その重みを受けて立つ必要がある。電力構成のなかで、原子力比率が30〜40%を目指すことが、原子力長計のなかでも謳われているが、本当にこれが妥当なレベルであるのか。この数字は電気事業者が10年程先を見越して、手のつけられそうな立地点をベースに積み上げたにすぎない比率ではないか。自給できる水力に限りがあり、火石燃料の世界情勢は大きく揺れている。そして京都議定書は発効して地球環境問題はますます大きくのしかかってくるという状況下で、今一度原点に立ち返って冒頭にも述べた電力供給に要求される基本的3条件 供給安定性・経済性・環境適合性に照らし、最適電源構成を検討してみる必要があると思う。検討には、我国特有の夏ピークや年間を通じての需要特性や、一日の昼夜の負荷変動特性なども条件に取り入れる必要があろう。結果として原子力への依存度は50%あるいはそれより少し上といったレベルが導き出されてくるのでは。そしてここに述べてきた課題も解いてゆくならば電力自由化という厳しい競争にさらされるなかにあっても、なお電気事業者の選択は自ずからその方向に向かってゆくことになろう。

 

(3)終わりに

ここに紹介してきた課題は、解決にかなり困難と時間も要し、政策誘導に期待せねばならない部分もある。しかし、積極的に解決に向かってゆかないと電気事業者が自由化のなかで生き残ってゆくための単なる戦略といった問題を超えて、日本のエネルギーセキュリティーや環境問題がおびやかされ、世界のなかで生き残ってゆく競争に遅れをとってしまうことになり兼ねない。また電気事業者もフンドシを締め直し、原子力が真の強力なツールとなるよう、取組んでゆかねば、原子力国営論あるいはバックエンドの国営論が出かねない状態におかれるのではないか。(以上)

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第三章  科学技術と地球環境を考える

 

 

3.1 「安心」の鍵は何だろう(小笠原英雄)

 

原子力発電に関連するニュースを拾うと、殆ど毎日のように「ポンプから水が漏れた」とか、「弁か壊れた」とか、はては発電所の構内のボヤ騒ぎなど、こまごまとした事例が報じられています。このところ試験データの改竄問題や美浜3号機の事故などが続き、国の検査や監督が厳しくなっていますが、原子力発電技術は「安心」して社会に受け入れられるものなのでしょうか。

 原子力発電所などの原子力施設は数万個に及ぶ機械・部品やそれらによる多数のシステムから出来上がっていますが、それらの個々の機械や部品は故障やトラブルから免れることはできないと考えざるを得ません。それは、作るのも、運転するのも、管理するのも、人手が関わっているからです。人は必ず失敗するものと考えるべきです。完全無欠の人は居ないと思います。材料の選定、構造強度の計算などの設計作業、出来上がった部品や機械の検査や試験の過程、そのデータの取扱い、試運マニュアルの作成、運転・保守、管理上の問題などなど、全ての段階に誤解やミスが入り込む危険性があります。材料などの寿命の問題もあります。このような文明の利器の有する特徴を踏まえて、「安心」のできる発電所などを運用することができるのでしょうか。

 原子力発電所では、そのために入念な「安全設計」が行なわれており、このことこそが「安心」の鍵になっているのです。基本になる考え方を「深層防護(defense in depth)の設計思想と呼びますが、以下の3段階の考え方から構成されています。即ち、

1)極力、異常の発生を防止する

2)もし、異常が発生しても、異常の拡大や事故への発展を防止する

3)たとえ事故に発展しても、周辺環境への放射性物質の放出を防止する

 (1)については、先に書きました材料選定から運転管理に至るまで、できるだけ品質管理を厳密にして故障や不具合が発生しないように努めることですが、このことは経済性を無視した費用を投入しても、人間業として完璧を期することは不可能でしょう。

 そこで、(2)(3)の対応が考慮されています。(2)の手段の一つとして、失敗があっても安全な方向に事態が推移するような原理や仕組みを選択するなど、「フェ−ル セーフ(fail safe)」と呼ばれる配慮が設計の段階で行なわれています。例えば、自動車の運転に失敗すると自然にブレーキが掛かるような仕組みです(このような都合の良いものがあるでしょうか?)。また、例えば自動車を2台用意しておいて、一つが故障しても直ちにもう一つの車を利用できるようにしておくような、同じ機械を複数系統作っておく「多重性(redundancy)」の設計手段があります。この場合トヨタとベンツを用意しておいて、片方がリコールなどで利用できない場合を想定しても大丈夫なように、異なった原理や製作方法などによる複数の設備を用意する「多重性(diversity)」の設計手段も採用されています。これらの対策は非常用電源を含めて、異常の検出と原子炉の運転停止と冷却に関わる安全上重要な設備の設計に採用されています。例えば、原子炉の運転停止を指示する計測システムや停止機能、中央制御室に置かれている運転制御用の大型計算機、後出の緊急炉心冷却系などは、同じ機能を持つ複数の系統から成り立っています。なお、「多重性」や「多様性」の要求に付随して、「独立性(physical separation)」の要求が合わせて大切と考えられております。これは、折角複数の系統を設備しておいても、一系統のトラブルの影響によって同じ機能を期待されている別の系統が影響を受ける事が無いようにとの配慮から設けられている要求です。台湾の発電所の例では、非常用電源の複数の系統が一部接近して配置されていたため、片方の火災の影響でもう片方の電源まで機能喪失に至ったケースがありました。

 また、原力発電所の特徴として上記(3)の設備対応がなされております。原子炉の緊急冷却と放射性物質の閉じ込めを目的に工学的安全設備、すなわち緊急炉心冷却系(ECCS)と原子炉格納器が設けられています。これらの設備は通常の営業運転には無用な設備であり、原子力以外には殆ど例がないものと思います。

 このように原子力発電所などの原子力設備には、通常の運転には使っていない系統や機械設備がたくさん、存在します。これらは、個々の機器などの故障やトラブルがあっても原子力発電所などで全体の安全機能を守る役割を果たしているのです。すなわち、「安心」のために「安全設計」は存在しているのです。

機械システムには「ハインリッヒの法則」と呼ばれる原理が働いていると言われています。これは、大きな故障や事故が起こる場合には、小さな故障やトラブルが前兆として起こっているというものです。すでに述べたように、原子力発電所のような巨大システムでは、どのように努力しても個々の機器や部品のトラブルは避けられないと考えるべきであり、したがってそれらのトラブルと「安全機能」を「絶縁」するために「安全設計」が行なわれていると考えられます。すなわち、安全設計が「ハインリッヒの法則」から原子力発電所の安全性を守っているのです。

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3.2 技術者の役割 -- Technologically Correct(堀 雅夫)

Politically Correct、略して「PC」という言葉がある。「政治的に正しい」という意味であるが、民主主義社会においては、「社会的に正しい」と時間差がある場合もあるが、同じとなるべきで、同じ考えて良い。

例えば、人種による差別は良くない、性による差別は良くないなどは、現代社会においてはPCになっている。

米国ではPCに則って話ができるようにと、皮肉混じりの辞書・ハンドブック(写真右)が出版されており、また昔のお砥ぎ話を現代のPCに則って書き直したものが"PC Bedtime Story"(写真右)として出ている。

PCをもじって、"Biologically Correct"、略してBCという造語が竹内久美子著の「BC!な話」(新潮社、1997年)(写真左)で使われている。これは「社会的な正しさ」PCとは独立に、例えば性によるいろいろな違いを生物学的に淡々と説明している本である。

同様に"Scientifically Correct"「SC」、"Technologically Correct"「TC」、すなわち「科学的に、技術的に正しい」という言葉を使うことが出来よう。これは、ある事柄に関して科学的・技術的な事実・知見と最善の推量に基づく見解のことを言うこととし、その時々に形成される社会のその事柄に関する理解とは独立なものである。

社会的な正しさPCは、BCSCTCなどの多くの正しさを総合して形成されるのが社会にとって望ましく、そのために科学技術に携わるものは、SCTCPCに適切に含めるべく発言することが要請される。

とくに、科学・技術が関係した規制や事故対応などの場合で見ると、専門家によるSCTCな見解のタイミング良い提示の必要性を感じる。

科学・技術による人工物が社会・公衆へ与える環境、健康など安全上の影響について、科学的・技術的な事実・知見に基づいた的確な判断とタイムリーな発言があれば、本来採られるべき処置が採られ、社会にとって無駄な損失が防げたと思える場合が多いからである。

例えば規制や事故対応で言うと、当該の企業、監督する官庁、判断する委員会など関与する各機関・各段階において、技術的判断に基づく責任者の判断とその発言が重要である。また学会のような中立的で権威ある専門家による見解の発信も重要である。

Technologically Correct な判断がPolitically Correctと異なっているときは、一般の風潮に逆らう発言を敢えてすることは、とくに事故時などではその当事者にとっては、実際にはかなり難しい。

しかし、その時は「責任逃れ」、「社会性がない」、「非現実的」などと社会やマスコミ、あるいは業界の非難を浴びようとも、Technologically Correct な判断、発言を敢えてするべきである。Technologically Correctな判断、発言は、より正しいPolitically Correctの形成に役立ち、結局は社会に貢献するものである。

技術者は、常にTechnologically Correctな判断・発言をすることがその役割であると自覚して、信念を持って行動するべきと考える。

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3.3 原子力施設のリスクに関する考察―リスクの緩和策とべネフィット(石井正則)

 

(1)まえがき

原子力に対する懸念としては、国際的には核兵器への転用が最大のものであろう。わが国では平和利用に徹することとしており、原爆の悲劇を体験した唯一の国としては、国民の大多数はこれを守ることに異論がないであろう。

国民(とりわけ地元住民)にとっては、原子力に対する懸念は放射線災害であろう。ややもすれば広島や長崎を想像してしまう、原爆トラウマから抜け出せない方々も依然としておられよう。然しながら制御した核反応による原子力発電は原爆とは異なるものであり、更に類を見ない程の安全性に対する配慮により、原子力は他の発電施設を始めとするリスク源と比較しても格段に安全であることが示されている。それにも関わらずリスクの受入が、わが国のエネルギー安全保障に必須な原子力の発展に障害となっている。

リスクの受容策の一助とするため、身近な高いリスクが受入れられるのに、格段に低い原子力のリスクが受入れられない理由を考えて見た。

 

(2)身近なリスクの受入構造

身近な例でいうと、交通事故による死亡率は10-4 /年と言われているが(1)、大多数の国民が受入れているリスクである。然しながら、実際に多くの国民は受入れに際して生命のリスクを保険によりお金に転換するというリスク対策をとっており、決して安全性に対する懸念が払拭しきれているわけではない。

このことは、それらを利用することによる生活の利便性や経済利益を享受するためには、この程度のリスクはあきらめのつく程度に極めて低いと考えられていることを意味している。そのうえで一抹の不安の緩和策として保険をかけているといえよう。換言すれば、十分なベネフィットがあり、更にリスクにともなう不安要素を緩和すれば、この程度のリスクは受容できる範囲であることを示唆している。

 

(3)原子力のリスクとベネフィット

原子力施設敷地境界付近の公衆の個人平均急性死亡リスクは、10-6/年程度を超えないことが安全目標とされている(1)。実情は、従事者の急性死亡例ではJCO事故の2名とチェルノブイリの32名があるものの一般公衆の死亡例はなく、これ以下と推定される。

この値を前述の身近に受入れられている事例と比較すると、十分受入れられ得る範囲と考えられる。然しながら、確率の数値のみで不安感情が解消できないのは保険によるリスク置換の例が示している通りである。

ベネフィットに関しては、エネルギーの安全保障や環境に対して計り知れないほど大きいものがあるが、これらは遍く一般国民全体の行き渡るものである。これらはリスクの負担度の大きい地域住民に限定されない。原子力施設のような公共施設では、個人の選択によりベネフィットを享受するような制度はなじまない。立地地域の住民を対象とすれば地域振興策などがあるが、ややもすれば代償といった色彩が大きいように感じられえる。個人はともかくとして、地域住民が固有のベネフィットと考えるようなものを明らかにしてゆく必要があるように思われる。

一方、保険によるリスク置換に類するものとしては、賠償責任を負っている事業者が責任を持つ原子力損害賠償制度が用意されている。これが各個人のリスク置換策にもなっていると考えられるが、個人の不安を緩和する役割は果たしていないように思われる。安全性の追求と同時に、このよう保険も含めて不安を緩和する努力が望まれる。

 

(4)まとめ

このような構造を考えると、リスクを受容し、不安感情を緩和するため、リスクの大きさ(確率)と様々なリスク低減対策や制度を分り易く説明する必要があろう。

ベネフィットに関しては、国家と国民生活の安寧という国益を理解してもらうことともに、立地地域に固有なベネフィットを創生する必要があると考える。この場合、立地地域に対する代償ではなく、原子力施設の周辺であることを積極的に活用して、永続性のある文化的な地域社会を構築できるようなものが望ましい。

参考資料

(1)安全目標に関する調査審議状況の中間とりまとめ(H15.2、原子力安全委員会)

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3.4 日本人は自らの安全システムを創造する能力が無いのでは?という外人記者の言葉松田 泰)

 

標題の言葉は数年前の電力会社の定期検査の報告をめぐる不祥事の処理に揺れている日本の事情を伝える外国メディアで見た言葉である。文章はこの通りではなく、内容の記憶を頼りに書いてみるとこうなるというものだが、読んだときの悔しさと無念さが忘れられない。

 軽水炉を主体とする原子炉施設が米国からの輸入で始まった事に起因して、わが国の規制の体系も米国を模倣しているものが多い。安全審査とその基礎となる安全審査指針等である。ただ安全審査という言葉が規制法をいくら読んでも見当たらない点からも解るように、火力発電を規制していた日本の電気事業法体系の中に組み込んでしまっており、とくに建設から運転開始後の規制は火力発電の延長線上で行われていて、日本独特のものとなっている。毎年の分解点検を含む定期検査制度はその代表であった。その是非は別として、配管の腐食等の初期トラブルを克服した後のわが国原子力発電所の運転実績は良好で、スクラム(強制停止)頻度の少なさ、厳重な放射線管理と従業員被爆の少なさ、放射性廃棄物の放出レベルの低さ(環境モニタで検出感度以下)等々誇らしげに語られた記憶がある。故障と燃費の少なさで日本の自動車が米国市場に進出しつつあったことと同じく、品質管理の優秀さについて外国から調査が来ていた。

 しかしこの実績を推し進める原動力についてはたいへん気がかりなものがあった。例えば放射性廃棄物の放出基準については、法令の基準よりは立地県との協定によって決まる値が実際の強制力を持つが、この値の決定は国の(法令)基準は論外で、先例となっている他県との比較が決め手であったように思われる。当然後発の地点程低くなって行く。この風潮は原子力の場合に固有のものでなく公害一般にも見られるものであり、日本人の心情といえるのだろうか。このためといっていいかどうか解らないが、運転中の燃料の破損は殆ど無いものが作られるようになり、一次冷却水中の放射性物質濃度も驚くほど少ない。国際会議でこの実績を説明すると、誉められるより驚かれる方が多く、日本ではどこまで下げれば良いのかと聞かれてしまう。作業員の被爆低下策についても或る途上国から何弗/レム(被爆線量)まで金を掛けるかと質問され日本の関係者から回答が出なかった経験もある。

 日本のことではないが、チェルノヴィリの事故のあと東欧産の缶詰類の輸入に際して放射線レベルの許容基準が各国で問題になったときの話しである。東南アジアのある国の原子力委員の方から質問と同時にその国の状況を聞かされたが、何しろ原子力施設の殆ど無い国であり、国民一般の感覚も解らない。結局政治家の多くが隣の国よりは低く要求して国家間のシーソーゲームとなり、最後はゼロとなった。物理的にはゼロというのはあり得ない話なのだが、実際は税関に高精度の測定器など無いので測れないことで落ち着いていると聞かされた。笑い話として聞き過ごすことはできなかった記憶がある。

 科学的合理性や経済的合理性を基に基準を決めて行くべきところが、外国の例或いは周囲の同意といったものの方が重要視される例は沢山見られる。地域住民の了解とか安心を得てと言うのが条件とされる場合は、そのことが社会的政治的に正しい事と認知されてさえしまう。行政官も政治家も実際の問題として合理性よりも国民感情とでもいうものを重要視せざるを得ないのだろう。このため行政は学者を集めた審議会を設けて、基準類の作成を図るが、そもそも基準類の多くは現実に事を進めるために必要な割りきりであって、学問的探求とは違った判断が必要な問題であるから、日本ではなかなか決められず、どこかの国あるいは国際機関で決めてくれるのを待つことがとても多い。

 定期検査の間隔や頻度、出力増加等諸外国で実施されている問題も日本では未だこれからである。それ以上に外国で実施例の多いプルサーマルの地元受け入れがこれほどまで難航する理由はどこにあるのだろう。

 最近のイラン問題等一神教の諸国間で宗教戦争的紛争が続くなかで、多神教的な周囲との調和を好む日本人の心情が指摘されることが多く、日本的コンセンサス作りも優れた点もあるだろう。しかし同時に新しいシステムの構築に向かって、創造的展開に多くの国民の心情が向かって行くことがなければ、標題に書いたような見方を諸外国からされてしまうこととなり、情けない話である。国際会議に出る行政官や業界関係者の方々が、恥ずかしく思われる日本の現状について率直に報告されることも必要であろう。外国かぶれの多い日本でややリスクもあるが、国内だけに目がむけられて狭い判断が多いのがもっと心配である。

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3.5 今こそ築こう、原子力の安心と信頼を!(安全・安心の現場から)(伊藤 睦)  

 

初めに言っておくが、現状を良く知らない現役から離れたOBであり、必ずしも当を得てない提言、苦言もあるが、老婆心、岡目八目的に、最近の原子力の現場に対して心から気になっている事を、言い古されたことではあるが、敢て述べるものである。

 

世界は原子力に純風が吹いて来た

京都議定書の発効で地球温暖化防止への関心が高まってきた事と昨今の石油価格の高騰で石油ピークが近いとの危機感から、最近原子力への認識が変わってきた。

昨年米国の「エネルギー法案」が議会の承認が得られ、今年になって、ブッシュ大統領の一般教書演説で「革新的エネルギー政策」が発表され引き続きエネルギー省が再処理を推進するGNEPを発表した。

わが国でも、昨年秋に「原子力政策大綱」が閣議決定され原子力推進がより具体的になったし、又今年5月には原子力も大きな柱の一つとする「新・国家エネルギー戦略」も纏まる見通しである。

欧州でも、フィンランドが新規原発の建設を始めたし、フランスでは原子力の維持に新型の発電所を建設していく計画であり、これまで、脱原子力を唱えていたドイツも見直しの議論が起こっている。

中国では、大胆な原子力発電計画を推進しており、インドでも原子力の開発を一層拡大する方針を打ち出して米国との協力関係を見直した。

このように、昨今国内外で原子力への風向きが変わってきていることは、反対はも含めて衆目の一致した見かたであろう。

 

日本はトラブルや不祥事が多い、原子力反対も根強い

このような状況も、TMI、チェルノブイルの大事故を教訓として、世界的に原子力の安全に取り組んで安全運転の実績を上げてきた結果がもたらしたものと思う。

日本は、近年 もんじゅ、JCO、東電問題、美浜蒸気事故等と事故や不祥事が起こり原子力の安全に対する信頼が毀損した。勿論、わが国特有の原子力アレルギーとそれを報道するマスコミの問題もあろうが、関係者の努力でこれもやっと乗り越えつつあると思われる。しかし、原子力反対派も根強く活動していることを忘れてはいけない。

最近も、大きくは無いが、事故トラブルや不祥事などが多く報道されているし、色々理由はあろうが、結果として発電所の稼働率などは世界最低の部類である。

 

折角の順風を事故トラブルや不祥事で逆風に変えるな

世の中、何事も良い状況になると、妬み、恨みなども加わりか、必ず足を引っ張られるのが世の常である。漸く原子力の必要性が広く認められつつある中で、世間に容認される基本となる安全性の問題で不安や不信が惹起されては、折角の順風を維持するのが難しくなり、わが国のエネルギー戦略の基本に影響を与えかねない。

このような時期こそ、事故、トラブルや不祥事を起こさないように、関係者は一層身を引き締めて対処して欲しい。まさに「勝って兜の緒をしめよ!」と言いたい。

 

現場(設計、製造、工事、運転、保守などの)を大切に。

事故、トラブルは現場で起こる。現場を預かる一人一人がその持ち場、持ち場をシッカリ守る事が事故、トラブルや不祥事を防ぐ最初で最後の砦であることを再度認識してもらいたい。

古く製造現場の品質確保システムにWSS(Work Station System)というのが有った。これは、その作業単位で作業の品質に責任を持ち、次のステーションに引き継ぐ方式である。言ってみれば一人一人がその作業に責任を持つことである。この組合せで製品は完成し品質が保てる。

今原子力に携わる人は経営者も管理者も、現場がこのような雰囲気で仕事をしている事を自らの目で確認してもらいたい。

 

事故、トラブル、不祥事は起こっても、その後の対応で信頼は繋ぎとめられる。

事故やミスは起こさないことが一番であるが、人間に完全はないし、ミスは犯す。機械は生き物であり故障や不具合は起こる。

問題はその後の処置である。事故やミスの原因を徹底的に追究し、再発防止をするのは当たり前だが、むしろ故障やミスの内容を世間に正確かつ解りやすく説明することが大事であり、不正確な説明で誤解を招いたりすれば不信は増大し、この対応が上手く行けば、逆に高い信頼が得られる。

これは、自動車や家電製品などのリコール対応問題など見てもわかる事である。

原子力は、これまでこの点で不十分ではなかったろうか。どうせ、説明しても解らないであろうとか、かえって不安を与えるから、ただ大丈夫と言えば好いなどと考えて、技術的に不正確な説明をしたり、適時適切な開示を憚ったりして、折角の反省も返って不信に繋がたことがあった。

管理者や経営者はむしろ事故、トラブルや不祥事が発生した時の対応策を事前に訓練しておくべきであろう。

最近は、品質問題や不祥事に備えて多くの企業で危機管理体制が構築されているが、危機管理の体制は出来ていても実際機能するかどうか日頃から確認されているであろうか気掛かりでは有る。

原子力の携わる現場はもとより経営者や管理者は、事故トラブルや不祥事の発生に備えて危機管理体制を構築と日頃その機能の確認に努めて欲しい。

 

過去の事故、トラブルの経験や教訓を生かしているか。

事故トラブルの予防で最も良い手段は過去の事例に学ぶ事である。

製造や工事の現場では安全確保のために作業前にKY(危険予知)運動が行われているが、この運動ではその作業に係る過去の不安全事例を提示して、関係者に危険を予知させるのが効果的と言われる。

これまで、大きな原子力事故として、世界的にはTMI、チェルノブイルが、そして我が国はもんじゅ,JCO、東電問題、美浜蒸気配管破断などが最近では有名であり十分に教訓として生かされていると思う。しかし、振り返ると、原子力発電の導入期、国産化期には、それぞれ多くの事故、トラブルを経験しそれを教訓にして、その反省をし再発防止に努め改良標準化を進めた結果、一時はわが国の発電所の稼働率も従事者被ばく線量も世界の模範とまで言われた。

最近では、国内外の時々刻々の事故、トラブル情報は収集され公表され、水平展開を図られル仕組みが出来ているが、心配なのは過去の重大な事故トラブルの風化である。

現在は、これまでと違った状況であり、起こる事故トラブルも異なる内容になろうが、過去の事故トラブルでも起こりうる類似事例が有る筈である。

原子力の現場では、定期的な運動として過去の事例に学ぶ運動を展開し日頃の危険予防に努めてもらいたい。

 

良好事例の水平展開で安全文化の醸成を

最近では、事故トラブルの水平展開による再発防止の仕組みは出来ているようだが、これだけでは、別の種類の事故トラブルの予防につながらない。

実際には多くの現場で事故、トラブルの未然防止に色々な工夫や仕組みなど対策を講じているはずである。

実際に起こった事故や故障トラブルは大事な教訓だが、更に大事な事は事故故障トラブルを未然に防止した良好な工夫、仕組みを見習う事である。

過って,企業のQCサークル活動が華やかなりし時、QCサークル大会の成果発表では各グループが競って良好事例を発表し、参加者はその事例を自分の職場に持ち帰って水平展開したものである。

原子力の世界でも事業者間でこのような運動の展開が出来ないものであろうか。

安全功労者表彰や優良事業所の表彰などはよく聞くが、もっと即物的な改善、工夫事例の事業者間現場間の発表交換があっても良いし、事故故障の報告と同様良好事例の報告を義務付ける事もよいのではないだろうか。

 

まとめ

原子力の信頼は実績からである。

原子力が化石エネルギーに代わり、真にわが国はもとより世界のエネルギーの主役になるには、世間の信頼を得る必要がある。

廃棄物の最終処分などの大きな政策課題も多々あるが、まずは足元(現場)で事故、トラブルや不祥事などを絶対に起こさないようにし、万が一起こった時には正しい対処をして、信頼を繋ぎとめ築いてもらいたいと願うものである。(以上)

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3.6 原発の安全問題を考える―志賀原発2号の地裁の耐震判決に関連して―(石井陽一郎)

 

今回 金沢地方裁判所により、志賀原発2号の運転停止の判決がなされた。 解説によれば裁判所の仮執行条件がついていないこともあり、北陸電力は運転を続けていく。今後は同電力の抗告、から上級審への対応、上級審審決、現在進行中の耐震基準の改定の動向を見守りたい。  原子力安全の根幹にかかわることであり注目せざるを得ない問題である。  

(1)設計余裕への配慮があるのだろうか、 

設計用限界地震S2の前提の一つが設計上の余裕をみてマグニチュード(M)6.5とした。地裁説明:大崎スペクトルなどへの最新の反例として政府が05年3月に発表した邑知潟断層はM7.6が30年以内に2%の確率で発生する(3.24東京新聞)ので設計を上回る。このほか95年1月の阪神淡路大震災での疑問、東北電力が仙台原発についてすでに解明したが05年8月の宮城県沖地震(M7.2)の応答スペクトルが設計値を上回った点があることなども地裁の判決に影響したと考えられる。

     原発は岩盤の上に建設されるものであり、それにより1/2から1/3震度が落ちるとの見解の上に成立したことである。数十kmはなれた震源と活断層のMを原発基礎にそのまま適用できるものだろうか、 後世の知見で震度(Mではない)がわずかオーバーの可能性があるとしても原発設備としての破損にいたるまでには十分な安全余裕があると考えられる。これは規制の問題でもあり、電力サイドの設計の問題でもある。

     地震に限らず、とりわけこういった自然現象による事故等では未知の部分が起こるかもしれない。これに対し、地震の設計値を不磨のものとして扱うのはいかがなものか。新しい耐震基準策定にあたり、安全上の工学的な連携すなわち、止める 冷やす 閉じ込める機能を満たす多重防護を活かす形で取りまとめられるよう要望したい。

(2)  リスクの観点から評価すべきではないか

     地裁の判決では地震規模が想定を上回る@→設備破損のオソレA→放射性物質がばら撒かれるオソレ(700kmはなれた地点でも1mSv上回るオソレ)B→人格権侵害となっている。

     以上の@とAの間には原発の自動停止→安全率が格段に高まる、が全く抜けている

仙台の地震でも安全停止された。工学的現実が無視されている。AからBは古いチェルノブイル原発事故以外は原発事故、トラブルなどで放射性物質の異常放出はないといえる。 止める、冷やすの他格納容器などの、閉じ込める 機能があるためにほかならない。

・地裁判決のロジックからは事象としては@×A×Bの各確率→ゼロではないので→事故発生、拡大のオソレがある となる。  しかしこの事故は現実社会ではリスク=確率P×被害のことであるはずである。 Pが限りなく小さく、被害がまた大きいとはいえないのでこのリスクは全く仮想的ともいえる小さな値になるであろう。

     以上をリスクに触れず、あるか ないかだけの組み合わせで論ずればいくら保護系を強化し、設計裕度を上げても同じ議論になり、全く現実を無視したものになろう。 

   昔からいわれる「風が吹けば桶屋が儲かる」話と同じになる。

(3)基準には工学的安全保護系を組み合わせる

原発では安全は最優先事項である、現実には合理的に達成可能な限りといったALARAの精神の上に立つと考えられる。  設計上の地震動は最新の知見で包絡されるべきであろう。しかし破損に至るまでには止める、冷やす、閉じ込めるといった多重保護機能がある。想定外の設計上の限界値をわずか超える場合が生じたとしてもそれは工学的安全裕度の中で吸収されるのではなかろうか。それら保護システムの機能はまず低い値の震度の検知から始まる。検知システムは地震加速度が大きくなるまでに正作動する。発電所は停止し、健全性が保持される。全体の保護系が損なわれてはじめて破損→事故の拡大→放射性物質の異常放出に至るのである。  これはたいへん低い値となろう。

事象発生の事前に一通りは評価が必要であるが、万一生じた事象でも事後評価で対応(設備設計、改造、基準)することで安全は担保されるのではではなかろうか。耐震に関わる局部的な懸念のある点、発電所全体の安全保護システムやマンマシーン機能でカバーしトータルとして安全が確保されれば、良いのではなかろうか。 

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3.7 原子力安全論での意見交換(石井陽一郎)

 

はじめに

 同窓のグループで月一度のゼミナール会がある。  また他の同窓会でも談たまたま原子力の話をぶつけられた。  今回 小生の担当で「原子力発電の事故と安全について」と題し、昔の大事故や近年のトラブルなどを通じ図表18枚を用い、原発の成立性の根本である事故と安全対策についてなるべく客観的にわかりやすく紹介したつもりである。  

内容は「一般事項」として原子力が他の産業に比べ桁外れに安全なこと、設計上は自己制御性―固有の安全性(軽水炉でのボイドやドップラー効果)があること、運転上は異常発生時、まず止める、冷やす、閉じ込める、がある。反証としての86年4月のチェルノブイル4号の大事故について紹介した。いわゆる多重防護として、異常発生の防止、同 拡大の防止、放射性物質の異常放出の防止を表により説明した。79年のTMI2号は大事故であったが格納容器がしっかり機能し、炉心損傷が生じたが、被害は限定された。 こういった大小の事故やトラブルは後続の炉の設計に反映されている。 原発の事故、トラブルには、振動によるもの、腐食減耗、漏洩が多い。事故、トラブル例として新しいものを中心に13件の実例紹介、チェルノブイル事故による障害の概要、原子力の耐震対策―3月の志賀2号の金沢地裁の判決はまだ出ていなかったがー、中部の浜岡1,2号は耐震対策先取りの形で長期停止になるなど報告した。放射線障害についても現行の基準、実績、考え方について説明した。  メンバーは共に理工系OBの集まりで直接 エネルギーや原子力に関係はないが、時節柄関心が高く、話も通じやすかった。  以下質疑のさわりを参考に供したい。

 

質疑  

・ 振動―これは純然たる機械式のもんじゅの温度計や美浜のSG管損傷のように流力振動とある。後者はなかなか設計にのらないとの体験談があった。

     意見:電力会社はもっと安全に留意すべきだ、具体的指摘はなかったが。Aたとえば設計上?格納容器を二重にする、安全保護系をダブル系にするーそれにはまたその機能の監視系が要るかも、スパイの上にまたスパイのハリツケのような話ダネ、どこまで安全ならよしとするかー工学的に可能な限り安全にするーALARAの話を追加、議論はこれ以上なく、自治体との情報交換のありかたについても全く言及は行なわれなかった。

     Q事故確率と被害の話で表(06,3月刊エネルギ村主氏)がわかりやすかったが、航空機のことが出ていない、Aなるほど、70年大のラスムッセンの表にはあったが、原発はそれに比べ大分安全で、たしか隕石落下による損害並と記憶する。

     意見:INESの国際評価尺度、日本のはまあこんなものか、それにしても外国のがもっとあるはず非公開?Aそんなことはない。その後見た限りでは、一部出ている資料もあったが、少ない感じである。公的に外国のも発表してもよいのではと感じた。

     意見:シュラウドの損傷はバウンダリではない、機能的には大型の整流板だ、

A新品同様でなく今は維持基準が整備されている。

     意見:美浜3号二次系配管損傷による死亡事故、幸い二次系で被曝はなかった。火力発電所も同じだ。A火力でも同じである。20年以上前米国サリー原発でも同種事故による死亡事故があった。

     Qガン治療のため重粒子線を昨年照射された人がいる。A局部のガン撲滅のために単位重量あたりヘビーな照射エネルギーを集中的に加える、ガンマ線でなく水素原子と同じ程度の重い粒子線に意味がある。医療など有用な被爆については国際放射線防護協会で認めている。  

     Q太陽と同じことを原子炉でやって安全といえるか、 A核融合の話ではないの?、第一太陽なみの6000℃以上ではセラミックで焼き固めた燃料棒すら融け、原子炉がそもそもなりたたない。

     意見:原発の排水温度は調べた限りでは+1℃だ、生態系にこの1度がどれだけ意味があるか考えたか、最近電力会社から説明に来た、聞いたら漁師に聞いてくれといわれたA+1℃はどこで測ったか、大昔に調べられているはずだ、+1℃より平均的にはもっと低いと思う。火力発電所と同じ話だ。漁師云々の話はもっともだろう、現実的な被害が出たとは専門ではないが、聞いていない。

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3.8 地球温暖化問題と原子力(石井陽一郎)

 

(1)はじめに

 昨年は猛烈な台風が日本や米国に頻々としてやってきた。台風の勢力は強くなかなか衰えない。海水温度は昔に比べ、0.6℃上昇し、海水の膨張から海面の上昇により低い地域の陸地は消え、高潮の被害も増しているようだ。陸地からのアイスフォールや氷山の氷解も伝えられる。一方渇水地域も増えているようだ。驚いたのは氷河、山雪やツンドラ地域の白い部分が減り、日照による入射エネルギーが増えているというものだ。こういった異常気象が地球温暖化ガスに起因するという説はかなり前から言われている。私も個人的に試算した結果では、地球上の文明の所産である排熱は多いのだが、太陽の入射エネルギーからみればはるかに少なく、地球温暖化を認めるならば膨大な入射太陽エネルギーのマント効果―すなわち地球温暖化ガスによるーしかないと確信するに至った。

最近 地球温暖化シンポジウムなど数件見聞きした。これまで以上に文明活動の結果生じている温暖化ガスは異常気象を招き、その問題が長期、かつ深刻な影響をもたらすものであることをあらためて認識させられた。

 

(2)各所での研究

 世界各国で地球をモデル化して、どういうことが起こるのか研究されている。NHKでは横浜にある、高性能なスパコンによる精緻な地球環境シュミレータやNASAでの研究結果を放映した。それによると

     ブラジル沖、赤道の南の温帯区域で記録的な熱帯性低気圧が発生した。その1年前、横浜のスパコンはそういった現象をほぼ予測したが、この地域では例のないことなので答えの解釈に悩んでいたそうだ。

     シュミレートは大気を細かくわけ、温度、湿度、CO2・・・をインプット解析している。  CO2は放置すれば今の2,6倍になり今世紀末には960ppmになるのだが、省エネ、エネルギー改革などを期待し700PPMで入力した。なお国立環境研は2℃の温度上昇に抑えるには550PPMとしてこの辺に収斂させることを強く説いていた。現在すでに370ppm、温度は0.6度上昇。なお都会とか地域で格差はある、IPCCのワトソンDrは全体でも700ppmで+4.2℃という。  今後の地球環境研究報告には目が離せない。

 

(3)  発生現象と将来予測

 全体として夏季が約半年と永くなる。熱射病による死者が東京で11倍、世界の主なところでも数十倍、すでに昨年のパリはひどかった。世界的にデング熱など疫病の発生域の増大、一部南方、日本では九州など増水のところもあるが、世界全体としては渇水地域が増え農産物は変わり、収穫は減る。台風、強風の増加による建築物損壊、高潮、浸水、海水レベル上昇は80cm以上凍土融解とあわせ世界的に130万km2の土地喪失 ・アマゾンの大雨林は2100年には6割以上失われる。昨年の米国南部のハリケーン カトリーナは9.11テロを超え損害保険額としても最大となった。昨年の日本の台風の数と強さも未曾有と言える。いま起こっている異常気象による事象は今後ますます頻発すると予測されている。

 

(4)  温暖化の原因

 最近の討論をみても温暖化ガス、つまり人為的なCO2を主因とすることはまず、動かないと考えられる。だが一部は温暖化による二次的なガス発生も寄与するようだ。森林の減少による吸収CO2の減少、さらに雪、氷河、降雪、森林の減少による地球上の反射率の減少や変化もいずれ評価されるだろう。

 

(5)  対策

 EU連合は2050年には温暖化ガスを50%下げるよう申し合わせた。わが国でも英国との話でこういった努力目標が最近確認された。05年日本の一次エネルギー中83%が化石燃料である、世界では87,7%、すべて燃料ではないにしろ半分くらいにしないとCO2減少は達成できない。京都議定書の達成のむつかしさからも抑制はかなりきびしいことがわかる。  CO2の発生抑制、原子力の比率の増加、自然エネルギーの拡大は環境保全面からも、外部経済のためにも一段と加速されねばならない。 それにしても環境論者、識者の一部は原子力に対して冷ややかなのはどういうわけであろうか。 

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第四章  放射線を正しく理解しよう

 

 

4.1 エネルギー正論「放射線を正しく理解して付き合おう」(竹内哲夫)

 

天然放射能も嫌う日本人

放射線は, 広島,長崎ほどの高線量を浴びれば人体損傷( 極端には死)につながるが,低線量域では,最近は研究が進み,逆に人体にプラスとなる効果もあるという研究成果の発表も多くなっている。専門屋でなくても,論理的には,太古からの生物は現在よりもはるかに高い放射線のなかで,進化の道を歩んできたので,すべての生き物は放射線に対して免疫がある。それどころか免疫活性すら与えられるとする実験結果も出てきている。

しかし,ICRP( 国際放射線防護委員会)は,低線量(天然)領域の放射線の生体影響を, 原爆のように極端に高い高線量域から直線でゼロと結ぶ“直線近似”にし,これにしがみついている。この「低線量領域への直線近似」( しきい値なし直線(LNT) 仮説)の単純思考が,わずかな放射線の存在すら悪影響を及ぼすと思わせている。

最近はラドン温泉が受けている。ホルミシスという放射線のプラス効果に対して「癒し」を求める人が多い今日,ICRP の日本代表となっている方は, いつまでも原爆トラウマを引きずっている世界の議論を見直させ,低線量域すらも放射線をタブー視する判断を直して欲しいものである。

 

放射線の正しい理解促進を

今世紀は,核燃料サイクル,バックエンド,炉解体(廃炉)と時代が進み,放射性廃棄物が負の遺産処理として重くのしかかってくる。これまでの議論は,国民全体が“ 放射能毛嫌い”ということで,日本の原子力は,ややもするとクリアランスレベルを世界より厳しいレベルに決めて一歩前進を急いだきらいがある。その結果, わが国の廃棄場の防護レベルは,放射能に過敏な日本人対応の採択になり,世界の孤児になりかけている。

また,これに伴う過剰な防護施設は,原子力全体のコスト増, 国際競争のハンディになる。関係者の再度の熟慮と周到な議論を願いたい。低線量の存在すら忌み嫌う現在の異様な国民感覚を専門家が勇気をもって議論し,ぜひ見直す必要がある。

 

全く進まない食品の放射線照射

青森の農家は, ニンニクの芽止め防止に抗生物質が使えなくなって悩んでいる。ジャガイモみたいに放射線が使えないかと思うが,一般的に議論されない。この面では世界に冠たる,遅れた無関心な国である。世界中がO‐157 など,新種ウイルスの出現で,食品の放射線照射が近年とみに受け入れられているなかで,日本人はサシミを常食し,好き嫌いの判断も極端な潔癖症。食文化はほめられても,いずれ輸出入の検疫, 害虫侵入など逆の面から問題になろう。食品照射では依然貝を閉ざす鎖国状態,不思議な国である。

 

原子力・放射線教育の充実を

日蓮説法よろしく,この1年間に5校の大学に赴き,原子力専攻の学生たちと懇談した。ここで驚いたことは,彼らが小・中・高で受けたエネルギー,原子力, 放射線などの教育が極めて貧弱なこと。いかなるアンケートよりも正確な答えを彼らから得ることができた。原爆以降60年,怖さは教えなくても国中,徹底している。

彼らが原子力を専攻した今も,もっと他のよい職業が選べなかったのかと,周囲(家庭も含め)の冷たい視線, 意見のなかにいる。要は彼らのほとんどが,中・高時代に,今もって広島・長崎,ビキニ,チェルノブイルなどばかりで,逆に原子力・放射線を利用して人類に貢献できることは教えられていない。当然, 家庭とその周囲も同じ感覚だから,彼らの進学,就職に際しては,心配の会話と冷たい目線。これでは若鶏は育たない。

世界唯一の被爆国,そして戦後の原子力(放射線含む)教育の欠落は,原子力への信頼を失墜させている。「放射能など考えるのも嫌い」という若者,「高級な理論や原理は説明しても無理」と思い込む教師,国民合意があるのは「ノーモア原爆」だけだ。

「私は次に生まれたら全く放射能のない世界にいたい」。日本の一流紙への女性読書からの投書である。投書もさることながらこれを載せる新聞社の見識を疑いたい。

立派な教科書は散在する。しかし,これを使いこなす先生不足は否めない。私の周辺にも同意見で危機意識をもつシニアが多く, 応援講座をNPO組織で行ったらどうかと言っている。まずは国民全体の意識改革に立ち上がることが先決だ。郵政民営化の小泉首相のような手法が必要である。

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4.2 放射線を正しく理解しよう「私(原子力エンジニア)は放射線とどのように付き合ってきたか?」太組健児)

 

(1)放射線との出会い

 1945年(昭和20年)の8月、私は広島県 江田島の海軍兵学校の3号生徒(1年生)として教育訓練に従事する毎日を送っていた。8月6日の朝、食事を終えて、生活の場である生徒館から その日の午前の教育を受けるために講堂へ出発すべく整列していたその時、突然、猛烈な閃光が走り、暫らくして激しい地響きとともに強風が襲ってきた。

 直ちに警戒の態勢に入ったが、当面さしたることも起こらなかったのでその日の課業を受けるべく、講堂へ移動した。付近にいた同僚の一人は、閃光を受けた時、首筋に熱さを感じたと話していた。その時は何事が起こったのか判らなかったが、昼休みに広島方面を見ると いわゆる「きのこ雲」が立ち昇っているのが望見され、それは2,3日続いたように記憶している。数日後には「特殊爆弾」により、広島全市が壊滅したらしいと知るとともに、被害の折に、白いシャツを着ていた人の被害が 比較的に軽症であったので、対策として、急遽、白い布が配布され、目の部分のみ孔を開けた頭巾を作り、それを常時携行するように指示されたことを覚えている。これが私の原子力ないしは放射線との不幸な出会いの始まりであった。

 終戦後、故郷の尾道に帰って、その後の生活に思いを致していた頃、近所の人で、当時広島で働いていて原爆に逢い、帰郷した人の頭髪がある日 突然ばっさりと抜け落ち、旬日のうちに亡くなられたという話を何度となく聞いたように覚えており、原子爆弾による直接被爆と放射性物質の摂取による体内被曝との結果であり、放射線の恐ろしさを身近に感じた覚えがある。

 

(2)大学での専門家教育

 昭和21年に旧制第3高等学校理科に入学し、3年の自由気ままな高校生活の後に京都大学理学部物理学科に進学した。当時、湯川博士のノーベル賞受賞などがあり、自分としても 原子核物理を勉強したいと思い、荒勝教授一門の原子核物理実験の専門コースを選び、学部最終の1年間、大学院の3年間 原子核に関する基礎的な勉強から、加速器、放射線測定など専門的な勉強に明け暮れ、専門的な知識も一通り身につけることが出来た。

 荒勝教授グループは 広島原爆投下直後、東京 理研の仁科教授グループとともに広島に赴き、放射性物質を検出し、原子力爆弾であることを突き止め政府に報告した研究グループである。

 放射線には どのようなものがあり、どのような特性を持っているのか 特に人体に対してどのような影響を持つのかについても一通りの知識を身につけることが出来た。

研究室には人口放射線源 32P(燐の放射性同位元素でベータ線を放出する)が置かれ、放射線計測研究のために、かなり自由に使用することが許されていた。また、コックロフトーウォルトン型の加速器があり、高エネルギーの放射線が利用できる環境にあり、そうした放射線への対応が必要であった。

 

(3)原子力エンジニアへの道

 昭和29年 アイゼンハウア大統領による国連での「Atom For Peace」の演説があり、それまでタブー視されていた原子力発電開発の機運が国内でも一気に高まり、電力会社、メーカーはもとより、建設会社なども開発体勢を強化すべく、エンジニアの採用拡大に走り始めた。そのような状況の中で日立製作所からの誘いがあり、応募して東京都下 国分寺の中央研究所に勤めることになった。当時 中央研究所では神原博士を中心に ベータトロンや中性子計測器の開発が始まっており、自分の専門知識を最も生かせるテーマとして、放射線計測を選び 自由に研究に従事させてもらった。

 放射線測定器の開発、測定法の開発 諸外国での原子炉での測定器の使用法などの調査に明け暮れたが、そうこうするうちに日立としても自前の教育訓練用の原子炉を持とうと言うことになり、炉心設計は研究所、原子炉本体の設計製作は日立工場で担当することになり、私は設置者側の責任者として働くことになった。機械図面など見たこともないものが連日 工場側から提出される図面を承認する立場になり、大いに面食らったことを覚えている。ただ原子炉炉心内部の中性子がどのように変化し、それをどのように測定し運転制御に結びつけるべきかについては充分な知識があり、原子炉の臨界から 出力運転までの運転管理には自信をもって立ち向かうことが出来た。この頃必要に応じて、国家資格である「放射線取扱主任者」「原子炉運転管理者」の資格を取得しており、原子力エンジニアとしての素養を身に着けていった。

 教育訓練用の原子炉(日立教育訓練用原子炉HTR)の運転管理の業務を遂行するに付いては、原子炉の内部での放射線(この場合には主として中性子)の強度レベルを測り、それを制御することは第一義的な問題であるが、原子炉から外部への放射線の漏洩の有無や、敷地周辺への放射性物質の放出の有無、さらには従業員の被爆管理の問題など、多岐に渉る放射線との関わりを避けて通ることは出来なかった。HTRの運転が起動に乗った頃に、茨城県日立市の日立工場へ移った。

 工場では 発電用原子炉の起動にまつわる問題を明らかにするとともに、より若い従業員の教育訓練に携わった。東京電力福島第1原子力発電所1号炉の起動を実地に体験すべく、未経験の所員と共に起動試験に関わる問題の現地実習に参加させていただく機会を与えられた。この経験が後に中国電力島根原子力発電所1号機の起動試験に役立ったことは言うを俟たない。島根1号機については 計測制御計画の責任者として参画できたことも原子力エンジニアとしてのキャリアアップにつながったと考えている。

 以上述べてきたように私のエンジニアとしての生涯には放射線と切っても切れない結びつきがあったといえるでしょう。

(4)放射線の種類と性質

 放射線にはアルファ線、ベータ線、ガンマ線、中性子線さらには陽子線などがあります。アルファ線は 陽子2個と中性子2個とが結びついたヘリウム原子核と同じもので、プラスの電気を帯びています。通常のエネルギーのアルファ線は物質の透過能力は低く、物質に吸収されやすいもので、吸収されてエネルギーを失うと周囲にある電子と結びついてヘリウム原子になります。アルファ線を出した物質はそれだけ陽子と中性子の数が減り別の物質になります。

 ベータ線は原子核から高速で飛び出す電子で、アルファ線よりも高い物質の透過能力を持っています。ベータ線を放出すると、原子核の中で中性子1個が陽子に変わり、放出した物質は別の物質に変わります。

 ガンマ線は原子核からアルファ線やベータ線が飛び出した直後などに、余ったエネルギーが電磁波の形で放出されるもので、アルファ線やベータ線よりも 物質透過能力は高いのです。電磁波は電波や光やガンマ線などの総称で、エックス線も電磁波であり、ガンマ線に比べると波長は長く物質透過能力も低いのですが、人体などは充分に透過する能力があり、エックス線検査に用いられるのは適度の透過能力が利用されているのだといえます。

 中性子線は核分裂などに伴い放出される中性子であり、電気的には中性です。したがって非常に強い透過能力を持っています。

 アルファ線は薄い紙で止めることが出来ますが、ベータ線を止めるにはアルミニウムなどの薄い金属板が必要で、ガンマ線を止めるには鉛や厚い鉄板が必要です。中性子線を止めるにはさらに厚いコンクリートや水の層が必要です。原子炉の中性子を炉外に漏らさないためには通常水の層とコンクリートが使われています。

 

1)日常生活での放射線の関わり

上述のような放射線やそれを放出する放射性物質は、人間が原子力の利用を開始したことによって初めて生まれたものではありません。人間は、有史以前から様々な形で放射線や放射性物質の中で生活してきました。ただ、それを知覚する能力が人間に備わっていなかったのです。

卑近な例としてはラジウム温泉が挙げられます。何とはなしに体に良いらしいと、喜んでラジウムを含む温泉に行き、単に放射線を浴びるだけでなく、温泉自体を飲むことにより、放射性物質を体内に取り入れることもされてきました。

地殻を構成している岩石や土砂などの中には、ウラン系列、トリウム系列、カリウムなどの放射性物質が含まれていて、これらは絶え間なく放射線を出しています。また、これらから生じたラドンは気体状の放射性物質であり、空気中に混じっていて、呼吸することによって体内に取り込まれ、体の内部で放射線を受けることになります。

さらに宇宙のかなたから飛来してくる宇宙線と呼ばれる放射線も絶えず人間に降り注いでいます。これら自然界に存在する放射線は、自然放射線と呼ばれています。

 放射線が人体に与える影響を表す単位として、シーベルトがありますが、人間は、一人当たり平均して1年間に約2.4ミリシーベルトの自然放射線を受けているといわれています。(原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)の報告)

これの内訳は、宇宙線によるもの0.39ミリシーベルト、土壌から放出されるもの0.48ミリシーベルト、日常摂取する食物を通じる体内被曝0.29ミリシーベルト、空気中のラドンなどの吸入により1.26ミリシーベルトです。これらの値が場所によって異なることは当然で、国内でも、もっとも少ない神奈川県と最も多い岐阜県では0.38ミリシーベルトの差があるといわれています。

一般公衆の年間の線量限度は1ミリシーベルトと規定されており(医療用を除く)、この他に 健康診断における胸部エックス線検査では0.05ミリシーベルト、胃部エックス線検査では0.6ミリシーベルトを受け、CT検査では6.9ミリシーベルトを受けるといわれています。私はかって肺がんの手術を受けたこともあり、今でも年2回のCT検査を受検しており、13.8ミリシーベルト余計に受けていることになります。この他にも航空機による海外旅行では、東京―ニューヨークを1回往復すると0.2ミリシーベルトを被爆するといわれています。したがって航空機による旅行を職業とする機長や客室乗務員はかなりの被爆を受けることになります。

 では原子力発電所の周辺ではどうでしょうか?我が国においては、原子力発電所周辺地域に与える影響は法令で、一般公衆に対して、年間1ミリシーベルトを超えないように設計すべきことが規定されています。実際にはそれよりもかなり低い値になるように配慮されていますので、通常運転に関しては全く問題ないことがお判りと思います。

 

2)放射線が人体に与える影響

  放射線が人体に与える影響は、放射線の種類や量によって異なります。放射線の生体への作用には、放射線が細胞のDNAなどに直接当たることによって生ずる「直接作用」と、放射線が細胞内の水や有機物質などを電離することにより化学反応性の強い物質(フリーラジカル)を発生させ、これがDNAなどを傷つける「間接作用」とがあります。一般に細胞分裂の盛んな部位ほど、放射線の影響をより多く受けることになります。

 私たちは、自然放射線を受けており、常に放射線によりDNAや細胞内の分子が損傷を受けているわけです。しかし、生体にはDNAや細胞レベルでの自己修復機能があり、少々の損傷は修復され影響が残りません。この自己修復能力を超える損傷を受けた時、放射線による影響が症状として現れることになります。

 大量の放射線が外部から当たると、多少の個人差はあっても、皮膚が赤くなったり、もっと強く照射されると、潰瘍を起こしたりします。これは、放射線を受けた部分の細胞がある程度破壊されるためです。また、一度に大量の放射線を受けると、急性放射線症の症状として、吐き気、おう吐、下痢、発熱さらには脱毛など様々な症状が発生することがあります。非常に大量の放射線を受けると死に至ります。

 これらの症状は、医学・生物学の立場から、発生する時期により早期影響と晩発影響に分けられます。早期影響とは、白血球の減少などのように放射線被爆後 数十日以内に現れる影響のことです。一方晩発影響とは、白内障、白血病やがんなどのように被爆後数年以上たって現れる影響のことです。この他 放射線を受けた人の子孫に対して、遺伝的影響が生ずる可能性も考えられますが、現在までの疫学調査では検出されていません。

 放射線防護の立場からは、放射線による影響は、確定的な影響と確率的な影響とに分けられます。確定的影響とは、一定の放射線量以下では医学的に検知できるほどには現れないとされている影響で、早期影響として現れる症状はすべて確定的影響といえます。

この境い目の放射線量を「しきい値」と呼んでいます。これに対し、確率的影響とは、放射線の量に比例して影響が発生する確率が高くなると考えられている影響のことで、晩発影響のがんや白血病などがこの確率的影響に含まれます。確率的影響の発生には放射線量の「しきい値」がないものとして、放射線の被曝による影響が評価されます。

 

3)人工放射線とその影響

  人が作り出した放射線源として過去に問題となったり現在において重要なものは@大気圏核実験のフォールアウト(核分裂生成物の降下物)、A原子力発電関連の活動、B放射線・放射性核種の産業利用、医学利用などによって発生する放射性物質などであります。

 1950年代に盛んに行われた大気圏核実験によるフォールアウトは、被爆線量として1963年にピーク値(世界平均0.15ミリシーベルト)に達し、その後は減少を続けて現在では0.005ミリシーベルト以下になっています。フォールアウトの放射性核種は多数ありますが、主要な核種は137Cs、90Sr,14Cです。この被爆事例としては第5福竜丸の被爆事故がわれわれ日本人として忘れられない事例であります。

 原子力発電の関連では、ウラン鉱石の採掘から始まって、精錬、加工、原子炉運転、使用済み燃料の再処理、核燃料物質の輸送、採鉱・精錬時のくずの処理などがあり、それぞれの段階について公衆への線量が推算され合算されている。例えば、全核燃料サイクルに起因する公衆への線量は 人口積分集団線量(一般に集団を対象にした線量評価に使われ、集団における一人当たりの個人被爆線量をすべて加算したもので、単位は人Sv)は、採鉱・精錬・燃料加工・輸送が900人Sv、原子炉運転が2900人Sv燃料再処理が4700人Svであり、これは電気出力1Gwhあたりでは0.9人Svであります。

 この単位電気出力あたりの人口積分集団線量は原子力発電初期(1970年代)に比べると長期的に減少傾向にありますが、これは近年、燃料再処理過程からの放出放射能が1桁以上、原子炉からの放出が7分の1以下に減少していることによるものであります。

 チェルノブイリ事故による放射能は北半球一帯に広がり、サイト周辺のベラルーシ、ウクライナ、ロシアでは深刻な環境汚染が生じました。これは北半球の一人当たりの平均線量としては0.002ミリシーベルトであったと推計されています。

 原子力発電関連の活動による従事者と一般公衆の被爆線量が全被爆線量に占める割合はごく小さいといえます。

 人口放射線による被曝で最も線量が多いのは医学利用に伴う被爆であり、中でもX線、CT,ポジトロンCT(PET)を用いての検査や診断による線量が大きい。特にわが国では、医療被曝の線量が自然放射線による線量を超えていると推定されています。

 

4)被爆線量のまとめ

  自然放射線による世界平均の被曝線量はすべての線源を併せて総計2.4ミリシーベルトと推計されているが、この中ではラドンによる割合が最も大きく、したがって、地域によって大きく変動し、低いところで1.0、高いところで11.2ミリシーベルトと、10倍を超える幅があります。人口放射線を併せると平均線量は2.8ミリシーベルトであります。

 職業被爆は年間で、人口線源に関する職業で0.6ミリシーベルト、業務によって高められた自然線源に関する職業で1.8ミリシーベルトであり、これらの線量に加えてそれぞれ一般人としての自然線源からの被爆量が加わることになります

 

(6)   むすび

  原子力発電所を運転すれば、原子炉の中では中性子による核反応を介して燃料が燃え、熱を発生させると共に放射性の高い核反応生成物が蓄積されてゆきます。通常の運転ではこの核反応の速度を制御してゆっくりと燃料を燃やし、必要な熱を取り出すわけですが、そのためには原子炉の中での中性子の発生状況を正しく計測し原子炉の内部での中性子分布状況を正しく把握することが必要です。このため原子力発電所での計測制御の仕事は通常運転において重要な役目を分担していると共に、何らかの原因で、一部の燃料が破損した場合には気体放射性物質が発生し、その一部は排気塔を介して外部に放出されることになります。こうしたリスクは常時存在しますが、要はそれが公衆に与える影響が許容範囲内であれば良いのです。どの程度の影響があるのかを 世界の科学者の英知を集めて定期的に提供しているのが「原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)です。

 人間が社会生活を送るためには、必ず何らかのリスクに遭遇するわけですが、例えば自動車を利用すれば かなり大きい確率で自動車事故が発生し、死亡事故も多く発生していますが、社会生活において自動車を利用することによる利便性(ベネフィット)が大きく、私たちは自動車を受容できるリスクとして取り入れています。

 原子力発電についても同様な考えで、ベネフィットとリスクの大きさの比較によって受容できるのかを考えてゆくことが必要であると思っています。私たち日本人は放射線とは、最初に、原子爆弾という不幸な形で遭遇したために、何時までもトラウマになって、拒絶反応を示しがちですが、人間の英知によって許容できるリスクは許容しながら、放射線

によるベネフィットを充分に享受することが大切であると思っています。

 わが国は島国で、石油などの資源に恵まれず、エネルギー源の大部分を輸入石油に頼っています。輸入のためには 中東から遠路はるばると輸送してくる必要がありますし、その輸入価格も必ずしも安定していません。

 エネルギー源に関する安全保障の面から考えても、環境に対するCOの排出の影響を考えても、われわれ日本人は原子力発電を前向きに受容してゆくことが必要であると考えています。

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4.3 迷信の根絶:非常識を破る着想と実践記―嫌われた「人形峠残土」を「マホロバ癒しのラドン福音」に!率先実行、魁より始めた“放射線は人間の活性素”(竹内哲夫)

 

怪獣ネッシーは英国湖水地方の夢、湖底探査までするのは野暮、人生に夢とロマンは残こしておこう。だが、日本中に蔓延した放射能嫌いの迷信は、文明の発達や生活基盤を制約しているだけに始末が悪い。明治維新で、一旦近代化に目覚めた日本は、原爆被爆から60年、放射線利用の面では再び鎖国時代に戻り、文明開化をとめている。問題は、この事自体が日本の世間一般に知れわたっていない事だ。

 

(1)人形峠で嫌われ続けた残土

昭和30年、私の卒業直前に自分の人生を原子力に向けたのは、当時日本中を沸かした人形峠のウラン鉱の発見だ。当時、戦後復興に懸命でおまけに無資源国とあって、日本人に夢と希望をもたらした。アイゼンハワーの平和利用宣言に続くこの発見、鉄腕アトムのつぶらな瞳も輝いた。一旦焦土化してから10年、日本中が原子力に夢を馳せた頃でもある。

 国産ウラン採掘が国営資源会社で進められ、技術成果を上げた。しかし、時代を経て、この事業は残念ながら量、質ともにわが国の原子力発電を背負うのは無理で、やがては採鉱、精製の事業化も疎んぜられた。それから、更に年月は経つうちに、その廃鉱の残土を巡って凄まじい排斥運動が起こる。残土の存在すら忌み嫌う地元住民は自治体ぐるみで排出運動をおこし訴訟に至った。結果して、事業者側は敗訴して、罰金として延滞費用の支払いをする事になり、つい昨年、やむを得ず、海外に残土の一部を(資源再利用という名目で)輸出する事になった。ここでは、この経緯を克明に述べるつもりはない。事実は沢山の記録資料や報道に譲りたい。

外国では、かような貴重なウラン廃鉱の跡地は、高線量でもガン治療院 (バードガシュタイン:オーストリア)として活用されている。

 

(2)自然並みの放射線は人体に有益(ホルミシス効果)

地球誕生、ビッグバン、46億年前から天は太陽の光と物質に放射性同位元素の存在を与えた。生命の起源も全てこの環境の中で起こった。「放射線無し」という仮想空間はこの世に存在せず、人体の構成に必須な元素カリウムに放射性同位元素K40がある限り、人体も放射能源であり、自然に受ける放射線の中には自分の肉体からの影響も無視できない。

 今、日本にはびこった常識、放射線嫌いは世界では通用しない。原爆投下、そして戦後60年間に放射線の特に高線量の被害を中心に究明した日・米の科学者が、国際舞台で影響評価の中心になってきた。人類にあってはならない原爆体験の贖罪のためか過大にとりあげ、ついこれが低線量の自然放射能のレベルまで単純に直線比例にしたため、全て放射線は悪、ネガチブに見るいわゆる「低線量への直線近似」という概念を作った。この国際放射線防護委員会(ICRP)の採択は、軽率な誤謬であり人類に悪影響を与えているとの批判が多い。

 これに対し、ここ10年間余、ラッキー博士などの新しい学説、低線量域では放射線は生物(人類にも)に有益であるとの論文、いわゆるホルミシス論は世界にひろがり続けている。これを裏付けるマウス等の実験結果が多く発表されている。科学者でなくとも、地球誕生の宇宙空間は今よりはるかに高い放射線の中で、全ての生物は誕生し進化してきたので、放射線はDNAなどの活動に活性を与える要素である事は疑う余地はない。

私は原子力委員在任中にわが国で放射線の生体影響、治療、利用、などの各面で活躍されている第一線の大御所の先生方と多く接したが、「低線量域の直線近似を見直すべき」という意見が圧倒的であり、自分もそう固く信じている。

国際的な権威機関の採決が重くのしかかり、これに盲従し、加えて原爆終戦から戦後に徹底した原子力と放射線教育を抹殺し続けた日本では、国民は放射能をタブー視し、関係者ですら放射線利用に積極的な発言や提言をしない。このため食品照射などは世界中の利用拡大の潮流をよそに、まだ日本では鎖国状態、ワースト・ワン、いずれは世界の孤児、異端児になってしまうであろう。

 

(3)人形峠の残土、転じて「マホロバ癒しの空間」に

永年、原子力委員の時から人形峠残土問題の行方にかかわり、そして、青春時代の原子力台頭の私の夢がひしがれ朽ちることを慙愧に思っていた。しかし、日本で名高い三朝温泉のラドン人気の近接地の事、地元企業家が目をつけて残土利用の温泉グッズの製造販売計画をおこし、新法人はこれに利用面から特許を与え、支援する事になった。

いわれなきNIMBY(Not In My Baack Yard)へのPAで逆転換するためには、皆で支援せねばならない。丁度、糖尿病で悩んでいた私は我先にこれにのめりこんだ。正しくミイラ取りが率先してミイラになった。

  その後、約1年たち、念願の正真正銘の人形峠原産のテラコッタ(素焼き板)が入手出来て、国内での民間利用第1号のラドン浴サウナを我が家に今年(平成18年)2月完成して、以降、家族で毎日、天与の恵みにあずかっている。

当然ながら、モデルルーム1号としての評価に新法人も協力してくれ、データ採取に1週間の試験を行い、ラドン濃度の評価も行い、慎重を期してくれた。(結果その他は別の技術資料に譲る)個人ベースで「マホロバ癒し空間」と命名した桐材囲いの2畳の小室の濃度は、日本で人気の三朝温泉(人形峠近接:鳥取県)のラドン濃度とほぼ同程度である。

この自宅サウナはドライ方式、温度40℃、湿度5−60%程度で設計し、ラドンα線吸引のほか、遠赤外線が出る珪藻土壁で囲っている。温熱が人体活性の必須要件として事業している「三井温熱梶vとタイアップしてこの世の福音になるよう活動を開始している。

稲村ガ崎は、鎌倉時代に「いざ鎌倉」の武士の棲み家、一の谷(ヤト)隠れ里だが、そこに人形峠の恵みの活性ラドンを付加しマホロバ癒しの空間を創生し、これを実体験し、世間へ訴えて行きたい。(以上)

 

補記:情報と後日談

このエッセイは極力 私の思いを書くため専門度を緩めて書いた。

詳細の内容やデーターは別途資料に示す。

(別途資料は「ココをクリック」、本分に戻るときはインターネット・エクスプローラの「戻る」をクリック)

今国内では上記の三朝温泉や玉川温泉(秋田県)などでもラドン浴に年に何十万の湯治客が訪れ有名だが、最近では遠赤外線効果も人気が出て各種グッズが販売されるなど、総じて「癒し」サウナ、温浴は静かなブームである。

ラドン効果を従来のサウナに付加する新しい試みは関心を呼び、その後、多くの方々(いってみれば適用2号候補)が拙宅に見学にこられている。

 

情報求め先:竹内哲夫・隆之 Email: tetakeut@kamakuranet.ne.jp

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第五章  エネルギーの使い方を考える

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第六章  私達の課題を考える

 

 

6.1 次世代への伝言“キセル屋原子力屋”の卒業論文竹内哲夫)

 

なぜ,今更卒論なのか

学生時代の卒論は,卒業資格取得のためのもので気楽だったが,今回は半世紀にわたる職歴の卒業である。自分の思いを述べ,世間に少しでも役立つ論文にしようと思う。誰の人生でも個性があり一つしかない。日経新聞の「私の履歴書」は自分史で有名だが,これは功なり名をなした人の話で自分などそのタマでない。

私の人生は,原子力の台頭,石油の津波,高度成長,バブル崩壊,どれをとっても特異体験であり,そのなかで,揺籃期の原子力→爆発成長の火力→渋滞した原子力へと逆戻りした“キセル原子力屋”である。そして,日本では希だが,民間電力会社から官へ天上がりし,内閣府の原子力委員も務めた。

論文を書く視点は多々あるが,50年間で世間からの評判が様変わり(反転)した原子力の問題に照準を絞り,自分なりの思いを率直に述べよう。

 

趣旨は「言霊(ことだま)の国を正そう」

私の人生は一度,この地球,日本で生を受けた。この国はいま 大きなうねりのなかで最も大切な時期のはずだが,この国では言霊(コトダマ)が昔から支配し,きわめつきの発言や大上段の危機予想などは嫌われ,ご法度の国である。

「自衛隊は軍隊か」というような言葉回しで,実態は何も変わらぬ議論が大好きで,いつまでも続く国。人種混成の少ない島国・日本では,血縁同志でも内部葛藤を「いじめ」にして楽しんできた。そして,異人種混成が当たり前の世界では通用しない体裁だけの議論が日本では延々と続く,それがコトダマだ。

ふと目にした本,井沢元彦著「言霊の国」(注・序末尾)は面白い。私ども昭和一桁,すなわち少年時代に分裂症的教育を受けたわが世代には,強烈な覚せい剤になる。ある日「鬼蓄米英」を大慌てで墨塗りし,マッカーサー様を迎えた少年が日本を高度成長させ,世界一流にまで奮闘したが,国の精神構造の戦後構築には,いささか問題を残している。靖国問題しかり,原子力問題もしかり。

石油中心の化石燃料の時代が急速に去る今世紀は,ヒトすべてが生命と文明の維持に向けて「化石号」から救助艇「核燃号」への乗り換えに躍起にならねばならぬ時期,大国(米・中)は,すでに原子力重視を宣言し,欧州EUも宣言に近い。無資源国・日本こそ,まさに生存をかけた崖ップチにいるはずだが,皆は,“小泉劇場”, 耐震設計偽装…と,この国では皮相な特異な話題がもてて,世界に飛び交うエネルギー危機情報に興味を示さぬ。これがコトダマ社会の現象だ。

コトダマの国ならではの議論,それは原子力でのプルサーマルがよい例だ。この,コトダマ国の和製新語は英語にもない。20〜30年もの実績を持つヨーロッパ人に,「原子力先進国の日本で,なぜ今頃,これが大問題になっているのか」と再々聞かれ,答えに窮した。それこそコトダマだが,これも外国人にはさらに難解。

コトダマ国の全国舞台での最大の演目は「もんじゅ」であった。「原子力はビデオ隠し屋か?」という世間の声は,最初は高度技術の孤高仙人集団への呼びかけくらいのつもりが,いつしか「いじめ教室」に変質し,10年余のロングラン興行,裁判所まで出演した。この虚劇による法外な損失は計りしれない。

原子力の担い手,40年前の「鉄腕アトム」君は,今は元気なく「弁明・弁解の士」になりきったのは,コトダマ社会の「いじめ教室」のイビラレ役が怖いからである。いまや原子力のブレーキは,このいじめ教室を看過しながら,「クダラン!止めなさい」とも言わない,無言の大衆かも知れぬ。元グリンピースの創設者さえ,原子力こそ未来の救援隊だと,最近表明し,反対一辺倒の活動家とは縁を切る,と方向転換した。よく勉強した人は変身も爽やかだ。

また,いまの縛りのまま,原子力は「自由化」舞台のなかで脇役を演じろというお達しは役違いで,原子力には国家,人類救済という別の大舞台での嵌まり役があるはずである。自由化と原子力推進とは別の次元で論議すべきだ。

無資源国・日本に唯一あるのはヒト資源。内部で争えば泡と消える,力が合えば実績からも世界に羽ばたける。原油津波のお宝船は,いま急に引き波に向きを変えている。全員が一致団結,「化石」から「核燃」への怒涛の荒海中で,救助艇への乗り換え,かつてない民族存続を賭けた平成決起の一大事到来の時。

だが,この危機情報にも耳を貸さず,相変わらず内部いじめに終始しているコトダマの国。大本営発表を信じやすい国民,周囲の発言に合わせれば,たとえ思考停止でも住める幸いの国,コトダマは続く。再び,国民総自決の道を黙々と歩んでいるのではないかと自覚することが改善の第一歩である。平穏に楽しくはしゃいでいる平成の飽食の宴,舞踏会に水を撒く無躾な流儀になったが,ご容赦,ご一読下さい。


 

化石時代の終焉 核時代へのバトンタッチの世紀

豊かな油去る ウタカタの夢覚め100年後ヒトはどうなる?

 悠々自適の歳になって,私は,とある講演会から神経が高ぶり,この1年余,今様の紙芝居(パワーポイント)を持参し,さながら日蓮の辻説法みたいに全国を行脚,その回数およそ45回,電力仲間,学生,市民の前で講演し,議論をし続けた。

私を異様に覚醒させた講演とは,平成16年9月,日本学術会議講堂での石井吉徳先生(資源論の東大名誉教授)の話。現代文明の担い手・原油は,人類とはわずか100年の付き合いで,今後は急速に減衰期に入るという内容だった。


 

自己催眠高じて日蓮になる

脳天への電撃ショックの要因は私の経歴にある。私の青春時代は原子力揺籃期,夢叶って日本初の東海ガス炉の設計者として駆け出したが,昭和35年,中東油到来の津波に飲まれて火力へ転勤。その後は30年間,油,LNG,石炭と付き合って,再度,原子力に漂着した。当時は超高度成長の時代だから無我夢中だったが,今思えば,化石燃料の大量消費は,まさしく懺悔モノだ。また,晩年の核燃サイクルの日本原燃と原子力委員の経験は,因縁だが私に未来のエネルギー危機の告知者たれ,とのご宣託かと思いこみ,地元鎌倉でなじみの日蓮上人よろしく全国めぐりの辻説法入りした。

「油去る,あとをどうする」を執筆し,この演題に,私の珍奇な経歴(両端が原子力,長い中通し筒が火力)を,“キセル原子力屋”と自称の看板を掲げ,わが人生そのままの体得信条「油の後,ヒトの救世主は核燃料サイクル,高速炉だ,急げ!」を説法した。

仲間の同業者は,もちろんうなずくが,飽食三昧,レジャー漬けの一般市民や学生の場にいったん入ると,この突飛な悲観論に当初は疑心半疑。だが,秋口に米国ハリケーンで煽られ,一時バレル70ドルを超す原油高騰,米航空会社の倒産など,不穏な情勢で聴衆の耳が立ってきた。しかし,無資源の日本列島,一般にはまだエネルギー情報にうとく,一週間遅れの天気予報を見るノー天気屋が多い。

ときに感受性豊かな高校生から「たくさん使ったのはオジサンたちや,僕たちどうしてくれる?なぜ,とっておいてくれなかったの」と絡まれ,孤独な宣教師は「高速炉のリサイクル」と答弁しても,子供にはまだ難解で判じ物だ。


 

オイルピーク論は日本で取り上げられない コトダマの国

 石井先生とは再々講演を帯同して語り合った。先生は「日本では未だに石油ピーク論そのものに耳を貸そうともしない。無視し,国家のリスク問題と考えることも拒否する。これは国の安全保障から見て危険な風潮,リスクヘッジの発想がなかった旧日本軍を彷彿させ,当時,秀才参謀たちは戦況が不利なことすら認めず,敗色が濃厚のころ,日本は神国,神風が吹くと言った。私は子供ながら,大人は馬鹿だなと思った。これも国民が軍部に強制されたのではない,互いに監視しあった。この体質は今も変わらない,日本は思考停止する国だ」という。先生と同年齢の私も,子供の頃,まったく同じ記憶がある。私が今日,コトダマと銘打った言葉は,神国・日本の古来から生まれた伝統だ。


 

この50年で原子力を日陰者に押しこめたのは油の津波

 昭和30年ごろ登場した「鉄腕アトム」君は,出番の時期が不幸だった。すぐ追っかけて,どっと押し寄せた油の津波(福音)で何もかも変わってしまった。物量インフレ,高度成長,海外旅行,飽食贅沢三昧の油社会になった。直前にイメージしていた「鉄腕アトム」君の輝いたつぶらな眼差しは,油漬けを洗ってみたら元の名,原子力の姿は消え,ロボットに変身してしまった。

この油津波に乗って火力へ配転した“キセル原子力屋”は,まさしく敵前逃亡者であり,火力での化石燃料の大量消費を懺悔しても,原子力屋から見れば敵に組した重犯人である。この面では,ヤニが詰まった六ヶ所のサイクル事業を一歩進めたことだけが,僅かながらの罪滅ぼし,減刑の余地はある。


 

油の津波はこれからの引き波が怖い

油の津波は40年後の今,引き波に変わった。いまや世界中がオイルピーク論,油減衰を信じ,第3次石油危機と銘打って,原子力,サイクル路線の強化を表明している。あのグリンピースですら,原子力しか解決法はない,と最近表明したが,日本はどうか?

石油危機もオイルショックという言葉で済ましてしまう日本人は,危機すらも一過性の痛みで感じるコトダマの国民。いまだに思考停止状態が続き,資源を扱う団体,部署ですら「油はまだある」と,安心を振りまいて,今も悲観論を打ち消している。

楽観論しか見えぬ国民は,「嫌な」ことを言わぬコトダマ作法に乗せられている。その上に,この国は(後述するが)世界唯一の原爆被災国,加えて教育不全。その結果,徹底的な原子力,放射能嫌いが蔓延しており,いま急に原子力の効用を納得させるには,まさしく猛速度突進の車をUターンさせるような離れ業がいる。

かつて絨毯(じゅうたん)爆撃が続く戦時中,小学校の庭の朝礼で聞いた竹ヤリ戦法みたいな号令…。これからの日本も国民総自決の道を選ぶのか?


 

原子力は油衰退の救世主になれるか?

くだんの石井先生とは,「昭和一桁」の同輩で,共有するのは危機意識。戦後の廃墟,飢餓(飢え)を知っている。私が単独で行う講演では,先生の許しを得て,油の中東依存や地球資源の偏在などの紹介を代行しているが,後半の小職の番,原子力開幕以来の一言故事の「高速炉リサイクルへの道」は,いまだに想定シナリオ止まり。しかも,「もんじゅ」の10年間の惰眠の直後だけに,なんとも説得力に欠ける。「なぜ,それほど重要なものを長く止めたのか?」の他問自問に今も窮しているからだ。

自論「高速炉を急げ,2025年に小型でも導入」に味付けして訴えている。これは技術屋なら合点。その他の方々には,先人たる初期開発者の存命中に苦労話の口頭伝承が不可欠。もんじゅ再開に間髪入れず一気呵成のやる気の継続がこの国では絶対必要だ。現行の「原子力政策大綱」の「2050年高速炉(FBR)実用化」という漠とした記述は,今の学生も自分の出番でないと勘違いしている。


 

軽水炉は今世紀半ばへ向けたエース

もう1つの論点。油の減衰が必然なら,化石系引退分のほとんどの電力は,原子力で補填するしかない。現状の原子力の比率30%を大幅に増やさないと電力バランスが取れないことは明白,議論は不要。今世紀前半に実力で頼りになるのは,世界中,軽水炉のみである。

米国はスリーマイル事故で30年途絶えた新設の再開を急ぎ,また,中国は電力不足で毎年100万kW級の増設を国を挙げて急発進している。世界大国の原子力ルネッサンス,熱いまなざしの情勢をよそに日本は依然,目覚め前の深い眠りの中だ。


 

CO2対策でも切り札は原子力

相次ぐ異常気象,病む地球,CO2削減は喫緊の課題。昨年はモントリオールで議論された。京都議定書の頃,日本の削減分は原子力20基で火力を代替すれば大丈夫という考えが識者間の一般常識だったはずだ。最近でもこの切り札たる原子力が,誰が考えても他の方策より効果的,かつ現実的であるが,電力自由化の進行で意欲がそがれ,コトダマ社会なのか,皆からは原子力推進をはばかり,強い声は消えた。いたずらに環境税課税などばかげた対策が顔出ししているが,これは不景気を加速するだけ。関係者の再考熟慮が必要だ。

欧州などでは,逆に原子力だけだ。自然エネルギーの過信はいけない,と最近では全く動向が反転している。


 

21 世紀エネルギー事情 国が主体でサイクル事業を完結

前半の“ウンチ”(使用済み燃料)を後半には米櫃(コメビツ)に入れる

生真面目な原子力屋の正確無比の解説は,一般受けせず理解が進まない。以下は本邦初公開のサイクル稀弁“ ウンチ”下ネタ編, 鼻をつまんで暫し我慢を。

軽水炉のウンチ(糞:使用済み燃料)は山ほどある。過去分と今後を見つめ,約100年間は溜めて使える。六ヶ所で再処理し, 一部はMOX燃料にしてプルサーマル燃焼させるが,さらに溜まると中間貯蔵される。おおよそ,このウンチを分析すると,軽水炉では(初期に炉装填)の栄養( 潜在利用可能)の1%ぐらいしか消化していない。それどころか,発電中に派生したプルトニウムと,ほとんど全部に近いウランが燃え残り栄養素満点である。これを再加工し,高速炉という頑丈な胃腸(消化液たる中性子が潤沢)で反芻消化すれば60倍のパワーが得られる。その反面,ポイ捨て(軽水炉ワンスルー)すれば,廃棄物中のウラン,プルトニウムは自然には消えず( 長い半減期), 将来,不貞の輩がプルトニウム鉱山で核ジャックする心配が残る。

この対策は,言ってみれば,今世紀前半まで主力の軽水炉のウンチを将来(高速炉時代)の米ビツにするわけだ。今後,世界中で軽水炉の増設が見込まれるが,ワンスルーでは消化力が弱いため,ウラン資源60年は,油とほぼ同じ運命となる。だから高速炉による反芻方式で60倍の能力アップが絶対必要であり,これが人類生存の鍵だと私は思う。

 


私見「原子力・サイクル事業の官民分担」

(お断り)以下は本卒論の中核で,原子力とサイクルの推進についての官民分担の私見を述べる。これはあくまでも21世紀全スパンを長期展望し,私の個人的な理想論を述べたものである。従って随所で現行とは違っているが,紆余曲折を経てようやく実用化の軌道に乗りかけた六ヶ所再処理,むつ市中間貯蔵計画などに水をさすつもりは毛頭なく,当面は現体制で順調に進展することを心底から願っている。将来の国大での理想形態の議論,国家百年の計をじっくり討議する時,たとえば次期「大綱」の議論の場などで参考として取り上げて欲しい。

この際,21世紀半ばまでにエネルギーひっ迫時代が到来することは必至なので,国の意識改革のためにも,原子力発電とリサイクル事業の官民分担,線引きを,この際,根本的に議論するべきである。提言を以下に述べる。

 

自由化に迎合しない国策議論を

電力自由化はすでにスタートした。いま,これを原点に白紙撤回せよとはいわないが,元来,原子力のように国家のエネルギー・環境の基本政策として, エネルギ−セキュリティとCO2削減に抜群の力,いわば国策貢献( 原子力クレジトと仮称)を殺がぬよう,自由化導入以前に十分議論しておくべきであった。原子力の推進と自由化とは,全く別の次元の問題(国の死活か,安い電気の供給か)である。現状はどちらかというと自由化を優先したため,原子力クレジットを無視できずに自由化フレームを部分補正する,いわばバチアテ的な議論になっている。ある時期に一度仕切り直しをしないと,やがて国はエネルギー危機に瀕することを危惧する。

今,自由化が先行して電力の経営者は,離脱するお客確保と,結果として減った需要喚起に躍起になり,かつて国策民営の原子力という,国内にあった永年の阿吽の呼吸は崩れてしまい,原子力だけにある立地難,運転リスク,初期投資負担などが自由化に必死な電力には重荷になり,原子力の新規開発への意欲がそがれつつある。


 

軽水炉発電時代は日銭商売,自由化に向く

原子力クレジットを絶対的に保証するためには,原子力発電からサイクル事業まで全部を国有化して国営にすべし,という極論も最近出ている。しかし私は,一顧客の立場からも,発送配電は一体,しかもお客への電気の使い方(サービス)まで一貫の現行方式に肩を持つ。供給責任,企業責任,競争原理,民活のすべてで,戦時中の一時の国営時代より優れているからである。

私の主張は,発電まで(MOX 燃料を使った発電,すなわち軽水炉運転まで)の範囲は,現行の自由化フレーム内に置きうるが,使用済み燃料管理,処理,最終処分など,いわばバックエンドと総称される部分は,将来,すべて国の責任,管理下とするということである。このスキームはスペインも意図している。

( 原子力支援だけなら,米国でも行っているような無手勝流,強引な方式,つまり民間で原子力推進ができるよう国としての政策誘導,支援策,税制対策,規制対策をすべて立法化し支援するブッシュ方式もある)


 

着想の転換が必要 「負の遺産」から生存の「コメビツ」に

これまでのわが国の廃棄物政策は,廃棄体はすべて「負の遺産」という考え方であり,事業の責任主体も原因者負担の原則が先に出て,電力系が主体となっていた。石油減衰,これに引きつられウラン高価格時代が現実になると,昔の飢餓時代の論理,国民糧食確保,配給制度の再来,発想も変えねばならない。最近まであった悪評判の食管制度と同様に国主体の管理方式がプルトニウムなどのリサイクル燃料には必要である。仮称「プール管」(Pu管)である。

 

私の提案スキームの論拠は以下の通り。

@軽水炉発電までは,電力販売というリアルタイム性,日銭型で,自由化の業態,民間企業の業務運営,経営評価に合わせ得るが,その産品( 実際には使用済燃料の再利用:再処理,MOX,中間貯蔵,さらに高レベル廃棄体処分と進む)いわばセキュリティ・ストックは,個別電力で発生させても,国全体の共有の糧食として保存倉庫運営にすべきである。リサイクルのため,再生産(MOX やFBR燃料)に登場する時期は,FBR 時代には発電とは極端な場合には半世紀もずれる。この大きな時間のズレを民営企業の短期決算,経営責任に組もうとすること自体が土台無理である。

 

A余分なプルトニウムを減らそうとMOX燃焼を急ぐ今後(20年程度)は,使用済み燃料を出した電力の原因者帰属が問われるが,その時代が終わり,次のFBR時代になると,高速炉立ち上げのための初装荷用プルトニウムのストック準備が要る。この頃,プルトニウムは余剰時代から急に変わり,プルトニウム不足で準備時代になる。これが私の主張するプルトニウムの国家プール管理(Pu管)の所以である。「利用目的のない使用済み燃料は再処理しない」と言った制限条件を課する現行の制度は,いずれなくし,かつ国家のプール在庫管理で高速炉時代を迎えねばならない。

Bこの種の議論で,世代間の均平化,すなわち次の世代の負担(負といっているので),将来の処理費用をいまから先取りして費用化しようとしているが,これは「子孫に美田を残す」譬えの全く逆になる、まして負の遺産を先に面倒を見るというのは,現世人の考えすぎ,格好をつけすぎである。油,化石のない時代には,プルトニウムなどは将来の国民の生命維持の貴重な「コメ櫃」のはず,これを早く喰えるようにする技術を残すことが,今の現世人に課せられた喫緊の使命。これを国挙げて強力に実行すべきだ。


 

リサイクル,バックエンドはストック型で プルトニウム管理は昔の食管制度に学ぶ

 プルトニウムやマイナーアクチノイドなどは,未来の国民を守る糧食として,これらの加工,貯蔵所となる使用済み燃料の中間貯蔵以降,再処理,高レベル廃棄体処分までのチェーン「バックエンド」は,「リサイクル燃料事業」であり,中を流れる物質プルトニウムなどは食料と違い,核不拡散の面からも国家大の在庫の綿密な管理が必要なので,国営化する方がすっきりする。国際的に透明性が保障される方式での管理が必要で,国内の在庫の実在量,使用目的など,プルトニウムなどのマニフェスト管理は,国際的に公表し,国の潔白も証明する,元来,常に国が前面に出るべき性格の事業である。

この受け渡しの境界となる中間貯蔵は,これまで民間主体で行われ,その1号がむつ市にキックオフしたことは喜ばしい。また,この一連のシステムの最後のアンカーのガラス固化体の最終処分場探しが最も重要になる。目下,自治体の参加申し出の公募方式で進められているが,民間主体では無理であり, 超長期の保証は国の責任である。現状は曖昧さが残り,意欲のある自治体があっても,県レベルへと行政単位が広がるにつれ,反対の意向が強くなり,そこへ地元の政治が入り,安易に「最終処分地にしない」議決が行われるなど,地方政治の食いモノになっている。

食料,エネルギー,防衛は,国の最優先事項,昔はコメすら食管でやっていた。「官から民へ」と,小さな政府論で論議される項目ではなく,国としての責務の放擲はいけない。現状の閉塞感をなくすよう,立法,行政両面からの国の深い関与が必要だ。国の指導,責任の明白化があったうえで,事業は膨大で多岐だから改めて民間へ運用委託すべきだ。


 

民間主体で進められている再処理事業 国の関与はこれでよいのか?

「プルトニウムの国際プール管理」( エルバラダイIAEA事務総長の多国間プルトニウム国際管理)というような意表をつく構想が出たり,また現在はイラン問題の国連討議の要求が起こっている。こうした度に,日本の再処理路線の是非があたかも原点に戻って議論されたりする。核武装なしの平和路線専一の日本が濃縮,再処理などを長年進めて来たのは過去の先達の並々ならぬ努力の賜物だが,世界ではまだ特別視される特権である。だが,世界では依然テロに悩み,核を脅威手段に画策する国もある,また日本とは後発の原子力発電国(中国を除くアジア)で将来の核燃サイクルの議論も出てくる。

私は,日本原燃の社長を経験し,操業安全,コスト意識,人材育成・技術伝承などに経営責任をとることに異存はないが,核不拡散で煽られるような中傷,国際リスクのヘッジなどは,民間企業の裁量の枠を超えて対応しきれないと,その頃から思っている。今後,永く続くリサイクル世代に備え,国大の分掌体制を,いちど整理,確認しなおす時期ではないか?


 

日本の常識 世界の非常識
(コップの中の議論)

 

資源争奪の国際情勢 原子力開発に猛発進の外国

 米国,中国は,早くも原子力ルネッサンス到来に急に舵を切ったが゛,日本はまだ夜明け前の安泰の深い眠りのなか。人口と文明の同時発展で,人口が多い中国の影響は今後凄まじく,石油の停滞期に,世界に強烈な脅威感を投げている。資源( エネルギーのみならず稀金属なども含め)外交では,米国の及ばぬ国に網羅的にネットを張り,権益確保に努めている。原子力の増設は毎年100〜150 万kW 級を20 年続け,ウラン枯渇対策もにらみ高速炉建設も表明。有人ロケットを飛ばした国。5年後には高速炉完成の報があるやも知れぬ。

中国とは目下,わが国は厳しい政冷関係にあるが,逆にわが国の原発製造能力は,あり余っている。早期に中国の原発建設への参画の道を政治的に模索,解決すべきである。その一方,黄砂,酸性雨,すべてが気候的に風上での巨大開発に対し,わが国で永年培った「安全文化」を,世界原子力発電事業者協会(WANO)などを通じ, 支援することを考えるべきである。


 

シーレーン防衛に無頓着

人工衛星は飛び交う。その窓からは中近東から日本へ向かう油船,LNG 船の行列, まさしくアリの群れである。なかでもホルムス,マラッカなど狭隘海峡は,ひしめく混雑を通過する。あるアメリカ人は私に「日本人は全く国内議論だけで自己中心だ。丸腰裸の無防備な可燃物船が問題なく運行しているのは,米国シーレーン防衛のおかげ。これはアメリカ人の税金で賄っている」と。確かにこの海域は昨春,日本の作業船「韋駄天」が海賊船に攻撃されたが,国際テロの海上での本格攻撃はまだない。エネルギー争奪の熾烈化の時代,もし起これば東電問題,関西美浜の事故などの国内問題は吹っ飛び,停電,油断の恐怖が来るだろう。


 

特選米好み 無類の潔癖症 議論のコップ内の誇大妄想

 資源・食料の自給率極悪で,もっぱら海外依存している国でBSE の議論は異常だ。日本人は「何様の食卓へ献上する素材の吟味をしているのか?」米国も怒る。仙台の牛タン屋はへばる。BSEの存在は認知して,リスクを公表している。国際摩擦まで起す問題でなく,国民がそれぞれ産地表示を見て嫌なら買わなければよい問題で,大上段の議論はコトダマの国の議論になりすぎている。これくらいの危険リスクでおびえるのなら,交通事故,自殺防止策などの身の回りの桁違いのハイリスクの対策を考えるべきだ。

日本人は特選米趣味。上品で結構だが,油,石炭では,世界は低品位, 極悪品の残渣も使えないかが,もはや問題になっている。日本の輸入炭の混炭技術は,特選米同士を高級な装置で行うナウイ方式は日本人趣味,実際にはこんな高級ブランドは買えない時代になっている。

特選級ではなく利用しにくい低品位の石炭を好んでガス化し複合発電で生かそうと,開発組合方式で, いわき市にプラントを建設中,平成19年には火が入る。時宜にかなう計画だ。これと同じ頃に議論されたFBRは,白熱の議論ばかりで,船頭が多すぎて船も出せなかった気がする。

別の視点のバイオ事業,九州電力系の鶏糞発電は着想,技術も良く,地に足が着いている画期的な事業と思う。狭間にあるシーズと地元のニーズがよくマッチしている。


 

原子力安全の判断は三位一体の流れでない 地方分権はとんでもない

国は小さな政府(役所),三位一体という名の地方分権の強化キャンペーンを小泉首相の肝いりで進めている。これには私も賛成だが,国の主導権をすべて地方に譲れば国の存在がなくなる。原子力の安全問題の評価,裁定は,国の仕事である。運用事業者の地元との安全協定の改訂で,立ち入り調査権以上に運転の可否にも地元の行政指導が深く関与してきている傾向がある。「安全」と「安心」は別であり,トラブル後の技術的評価は国に任せ,安全なら運転許可を出し,地元の不安解消,つまり「安心」には,得心のいく説明を並行してすべきである。


 

テロ対策の強化と原子力施設の地域開放

国際テロ対策強化の一環として,テロの標的設備として原子力設備が挙げられており,この1年間で入出門の管理,警察や海上保安艇の配備など,めっきりと厳重になった。このことと,つい3年前までの「100万人の原子力訪問勧誘」のキャンペーンとは真っ向から逆行,矛盾する。原子力施設は町外れの刑務所ではないのだから,親しめる原子力施設への勧誘活動を今後も進めないと,また,高い塀の向こうに放射能のある不気味な施設の原子力になってしまう。主婦層,学校,団体などの施設訪問を増やすよう,やり方をこの際考えるべきだ。


 

耐震議論で長期運転停止はモッタイナイ!

女川原発は,昨秋の地震で本体設備の損傷はないとする確認後も,全基の原子炉が長日月停止した。安全性の評価時点の震度が,ある周波数帯でわずか想定外だったという。地震国だから議論は大切だが,周辺住家,施設が何も壊れていないのに,長い議論中,発電所の全基停止は全くモッタイナイ。余震は本震より小さなことも常識,議論は運転してからすべきだ。その後,発生した珍奇な事件の耐震強度偽装問題で世間は騒然,こんな問題とは全く違う。原子力界は安全審査のこだわりで無駄な停止を招いたことは損失甚大,今後の反省事項だ。


 

放射線に極めて過敏な日本

ICRPの直線近似の矛盾 天然放射能すら嫌う不思議

 世界唯一の原爆体験国として,高線量(致死量)被曝のデータの提供で,日本は長年にわたりICRP(国際放射線防護委員会)の重鎮として,世界の放射線の障害評価,基準の審議で活躍してきていることは周知のとおりである。

日本の放射線の疫学と利用の両面からの大先生方と委員会時代に議論し,このなかで,まだ日本の戦後が総括されていない問題の大きな点に「低線量領域への直線近似」があることを痛感した。その最大の原因は,世界の権威であるICRPがこの問題に十分突っ込んだ議論をしてこなかったからである。あまりに専門的な話なので若干,解説的に述べたい。問題は,宇宙,地球上のどこにでも存在する「低線量(天然)の領域の放射線の生体影響を,原爆のように極端に高い高線量域から直線でゼロと結ぶ“直線近似”にしている」ことに端を発している。高線量域は明らかに人体損傷(極端には死)につながるが,低い領域では,最近は研究が進み,逆に人体にプラスとなる効果があるという実例,研究成果の発表が多くなっている。

専門屋でなくても,論理的には,太古からの生物は,進化の過程で現在よりもはるかに高い放射線のなかで生物は進化の道を歩んできたので,すべての生き物は放射線に対する免疫,それどころか免疫活性すら与えられていることを疑う余地はない。直線近似という単純思考は,わずかな放射線の存在すらもすべてを悪影響として扱うことになる。

最近はラドン温泉が受けている。ホルミシスという放射線のプラス効果に対して「癒し」を求める人が多い今日,ICRPの日本代表となっている方は, いつまでも原爆トラウマを引きずっている世界の議論を是非見直させ,低線量域すらも放射線をタブー視する判断を直して欲しい。


 

サイクル,バックエンドの時代 放射線(能)の正しい理解促進を

 サイクル,バックエンド,炉解体と今世紀は時代が進む。これまでの発電先取り時代と違って,放射性廃棄物が負の遺産処理として重くのしかかってくる。これまでの議論は,わが国の国民全体が放射能毛嫌いということで,日本の原子力は,ややもするとクリアランスレベルを世界より厳しいレベルに決めて一歩前進を急いだきらいがあり,結果としてわが国の廃棄場の防護レベルは,日本人だけが放射能に過敏という採択になり,世界の孤児になりかけている。また,これに伴う過剰な防護施設は,原子力全体のコスト増,国際競争のハンディになる。関係者の再度の熟慮と周到な議論を願いたい。低線量の存在すら忌み嫌う現在の異様な国民感覚を専門家が勇気をもって議論し,是非直す必要がある。


 

全く進まない食品の放射線照射

青森のニンニクの芽止め防止に抗生物質が使えなくなって悩んでいる。ジャガイモみたいに放射線が使えないか?と思うが,一般的に議論されない。この面では世界に冠たる,遅れた無関心な国である。

世界中がO157など新種ウイルスの出現で,食品の放射線照射が近年とみに受け入れられているなかで,日本人はサシミを常食し,好き嫌いの判断も極端な潔癖症,食文化はほめられても,輸出入の検疫,害虫侵入などで,いずれ逆の面から問題になろう。食品照射では依然貝を閉ざす鎖国状態,不思議な国である。


 

人形峠の残土輸出は世界の笑いもの

昭和30年頃,日本にアトムの夢を生んだ人形峠のウラン鉱の採掘の残土は,長年にわたって周辺から嫌われ続け,当事者は旧動燃時代から,周辺の自治体,住民と裁判沙汰になり延滞金徴収の騒ぎで,止むなく昨年,海外搬出になった。しかし,その膝元には,誰が見ても同じ鉱脈と目されるラドンの三朝温泉があり,ここには老若男女が年中集って放射能の恩恵に浴している。海外では,かような鉱山跡は,ガン患者のクアハウスとして利用されている。地球は広い,「国変われば愛憎も逆」という例だ。日本だけがコトダマ現象のNIMBYが放置されている。


 

 

教育改革はかけ声だけではダメ

原子力・放射線教育のテコ入れを 世間の目を気にする原子力の若鶏たち

 日蓮説法でこの1年間に5校の大学に赴き,原子力専攻の学生たちと懇談した。ここで驚いたことが2点ある。

@ 彼らが小・中・高で受けたエネルギー,原子力,放射線などの教育が極めて貧弱なこと。いかなるアンケートよりも正確な答えを彼らから得た。原爆以降60年,怖さは教えなくても国中,徹底している。

A原子力を専攻した今も,周囲(家庭も含め)はもっと他の良い職業が選べなかったのかと,冷たい視線や意見のなかにいる。

要は,彼らのほとんどが,中・高時代に今もって,広島・長崎,ビキニ, チェルノブイルなどばかりで,逆に原子力・放射線の利用や人類への貢献は教えられていない。当然,家庭周囲も同じ感覚だから彼らの進学,就職に際して心配の会話,冷たい目線。これでは若鶏は育たぬ。


 

緊急対策は教育へのカンフル注射だ

原爆直後から加害・被害の両者が,その残酷性だけの教育で放任し,そこに反戦・反核教師がイデオロギーと絡めて暗躍し,今の一般意識「原爆=核=原発=恐ろしい・危険→反対」という核アレルギーの日本人を作った。この反省,見直しが60年間も放任された,まさしく無作為の罪だ。原子力の日に「放射線の正しい理解を」と一斉キャンペーンしたらどうか?

いま,立派な教科書は散在するが,これを使いこなす先生不足は否めない。私の周辺にも同意見で危機意識をもつシニアが多く, 臨時に応援講座をNPO 組織で行ったらどうかと言っている。まずは国民全体の意識改革に立ち上がることが先決だ。郵政民営化の小泉首相のような手法が必要だ。


 

「原子力工学科」が消えたコトダマ社会

昭和30 年代,夢と希望で一斉に誕生した「原子力工学科」は,原子力が不人気になると一斉に消え,「量子システム」というようなファジーな名前に変身, 戒名,なかには「環境」を取り入れたところもある。優秀な学生が来なくなった苦肉の対策とはいえ,コトダマ社会の象徴。原子力ルネッサンス時代に「昔の名前」に呼びなおす傾向が出てきたのは喜ばしい。コトダマを使っても救世主,原子力に学生が戻る社会になって欲しいが,現状は,まだほど遠い。


 

 

“キセル原子力屋”大いにモノ申す

なぜ,原子力屋に対する世間の評判がこの半世紀に反転したのか?これが卒論の私の大きなテーマである。

まず,この間の社会情勢から眺めよう。

これまで明日のエネルギーの担い手として原子力関係者の思いは熱く,黙々と努力してきた,この姿は今も,最初も変わらぬ。見る目,社会が変わっただけだ。当初は旧・日本原子力研究所の動力試験炉「JPDR」の初臨界,大阪万博初送電,英国サッチャー首相東海視察など,他分野なみに日本でも大もてだった。しかし,この後,スリーマイル,チェルノブイルなど世界的な原子力事故で,反原発,反核運動家は勢いつき根強い強力な反対ネットが形成され,双方で専門度の高い議論か始まった。

 

原子力開発スタート直後に中東原油到来 ひっ迫感消える

なんと言っても,いま私が指摘したいのは,油で世間の危機感が喪失したことである。日本で原子力開発の火がともったのは昭和30年。このわずか5年遅れで常識的で,かつ使いやすい中東油が怒涛の津波のように殺到し,高度成長,所得倍増,エネルギー豊満時代となり,世間の目が原子力開発に向かわず,ひとりでに日陰者になっていた。第2次石油危機を,危機(crisis)ではなく,ショックととらえたお国柄だったが,この時,とっさにこつ然と出た人気は,やはり原子力だった。これ以来,原子力は裏舞台から,またヒノキ舞台に駆り出されて役者になり,「国策国是の柱」,「油へのバーゲニングパワーの主役」と言われ,今日まで変わっていない。だが,皮肉なことに,この後も油は健在で,「油はいつも30 年,オオカミ少年」と言われてきた。原子力イジメをしても心配のない時代が続いた。私は,日本のコトダマ論調こそ,日和見風見鶏で,生真面目な原子力屋はこのいけにえになったと言いたい。


 

軽水炉の習得,旧動燃の開発 一心不乱の原子力屋の努力
 この間,電力会社の原子力屋は,軽水炉技術を海外から導入,現場で黙々,営々と努力し,徐々に稼働率も上がり,日本の電力の礎として一人前に仕上げてきた。この頃,購買部門にいた私は,初期開発に懸命な技術屋魂と苦労を共有する場面が再々あったので,心情共によく分かる。

一方,国の開発,旧動燃では,原子力技術屋は,営々,黙々と日本の自主技術の開発に没頭した。この間の技術成果は,私も原子力復帰( 原燃・原子力委員)した後,現場技術の議論で知るが,今もって世界に冠たる成果が一杯ある。回転胴濃縮,ふげん(MOX , さらにはプルトニウムリサイクルの完成), さらには「もんじゅ」に進んだ技術成果は,今もって日本の匠のお手本,金字塔だと高く評価したい。私自身もこの間,火力部門で環境や燃料多様化の対応のため,矢継ぎ早に技術の開発を手がけたが,その現場マンの目で見て,原子力の自主技術開発には,はるかに高度で緻密な日本の技を込めたものが多い

と今もって感心している。


 

「ビデオ隠し」は日本のコトダマ迫害 油社会はコトダマ圧力に火をつけた

しかし,もんじゅでナトリウム漏洩事故が発生,この時の「ビデオ隠し」から原子力界は,いじめ教室のイジメラレの寵児の役に回る。コトダマ国のコトダマ現象が原子力界になだれ込んできた。

当時は,高度成長,贅沢三昧,ウハウハの時代。社会は油漬けで先の心配もなかった。油断大敵も一時の日本叩きといわれた第2次石油危機も一過性現象として,軽いショックという表現で済ましたお国柄のこと。コトダマ社会はいじめを好む。いじめが深刻にならなければ自殺者も止まらない。

ひたむきな原子力技術屋は,核不拡散のための特別な守秘義務によりノウハウ開示もなく宣伝下手。ましてや一般日常商品でないため全くの宣伝ナシ。まさしく孤高の仙人が深山で修行の様だった。事故ソレという時に「ビデオ隠し」だけが誇張・宣伝され, やり玉に上がる。営々たる努力の国家的成果品を一笑の記事,物見高い論評の対象にした。原子力界のこの半世紀の外部評価の反転現象,いわばコトダマなだれはこの時から始まる。この遠因は, やはり「豊かな油」であり,原子力をもてあそんでも何も心配のない太平の世,豊満,贅沢三昧のお国柄ではなだれ防止策がない。栄華の終わりにローマの悪帝ネロは残虐まで走ったが,コトダマ国では,イジメの連続を欲しがる。


 

原子力劇の長編 演目は続く

この頃から,このコトダマ現象は日本の原子力の定番になった。溶接データ改ざん,アスファルト固化施設の爆発,輸送キャスク・データ改ざん,JCO 臨界事故,東電問題,関電美浜事故,原燃プールの水漏洩…次は何かと待たれた。

これらは技術的には一件ごとに性格,原因,結果が多様であり,同じパターンの報道に載るものではない。件数のなかで多くは人為的な事件であり,原子力の本質安全を脅かすものはごく少ない(JCOは例外だが)のだが,報道は世間大衆に「まだ原子力はダメ」と印象付けたことは事実である。これが長く続いてきた。

私は,事件,事故後にもっと冷静に分類精査して,再発防止策をすべきと日頃思っているが,この間の対策は,真の原因の究明より,ダメ人には掟をとばかりに,外部監査,検査,言ってみればシバリ強化だけに重点が置かれてきた。こうした従来の対策に深い疑問をもっている。


 

コトダマ迫害は国民の放射能嫌いを増幅

後述するが,世界唯一の被爆国,そして戦後の原子力(放射線含む)教育の欠落は,この全国コトダマ党の炎に火をつけ,原子力信頼を失墜させている。「放射能など考えるのも嫌い」という若者,「高級な理論や原理は説明しても無理」と思い込む教師,このコトダマの国で国民合意があるのは「ノーモア原爆」だけだ。「私は次に生まれたら全く放射能のない世界にいたい」。日本の一流紙への一女性読書からの投書である。投書もさることながらこれを載せる

新聞社の見識を疑いたい。


 

事故報道には科学性を 単位・レベルの表示を
 旧聞になるが,私の原燃社長時代に旧動燃の東海村でアスファルト固化施設の火災爆発事故があった。原燃青森からの研修生も,実習中,この事故に遭遇したが,地元紙で「被曝」と大騒ぎになり収拾が大変だった。一段落後,データを取り寄せて検討したら,日本中の天然放射能の地域別高低差の何分の1くらいの話だったことが分かった。この頃にはとうに騒ぎは収まり,訂正しても後の祭り。事故,事件の場合に事故現象のレベルや数値がなく,単に「被曝」時には「被爆」と騒ぎだけが列島を走る。解説には科学性を持たせて欲しいと思う。いたずらに大げさな報道で実際に放射線障害はなくても,心的障害PSTD 患者を作る方が,心のケアを考えると問題は大きく,今後は是非見直して欲しい。


 

放射能と騒音

騒音公害で無音がよいというなら,ためしに研究所の無音室に入ってごらん。その恐怖は,長居は全く不可能で,生理的にもたない。「蛙飛び込む水の音」,「岩にしみいる蝉の声」。昔, 俳句の達人は静寂を音で詠んだ。太古ははるかに高い放射線の地球, それはすべての生物の誕生の場であり,そこから進化し生まれてきた。放射線に無縁の生物などこの世にいるはずがない。


 

火力と原子力は何がちがうのか?

 

職場雰囲気の形成と変遷

「火力と原子力は何が違うか」。講演会で聞かれた難問,「キセル原子力屋なら回答せよ」と言われた名質問。この答えはこの卒論で観念して取り上げたが,一語では無理。原因,過程と時代の外部環境のすべてが交錯している。


 

原因系:火力と原子力は土が違う

私が火力入りした昭和30年代の火力は,電産闘争のメッカ,停電ストを辞さぬ強烈な前代未問のただれた職場で,双方がオルグ活動に明ける葛藤の場だった。当時の火力現場は,まだ前時代的な人力優先,運転直員数30人以上の大所帯だった。補修も同様,大親分衆的なボスもいるが,日本で江戸から続いた番頭屋敷的雰囲気もあった。学卒,転入者もこのなかに入り,先輩から技や匠を学ぶ。日本古来の現場教育だが,土壌は日本の土。高度成長で輸入機,大容量化,自動化などで急速に近代化が進むが,土は変わらず,輸入機の警報表示盤の名称やマニュアル類は,まず日本語に直すのが学卒の最初の仕事だった。

原子力の現場は,昭和40年当初,輸入ベースのターンキー契約で外国人の指導を仰ぐ格好で一斉に確立された。もともと日本で原型がない高度技術を植木と土を一緒に導入する形だった。この頃,火力マンは,高度成長,電力不足で超多忙,おまけに職場汚染(電産問題)の心配から原子力に多くは移転していない。そのうえ原子力は放射線管理,入構管理が厳しく,原子炉の理論なども含め,よく短期間に高級技術をこなしたものだ。一切が新技術で,英語も飛び交う職場,古くからの日本の伝統技術に目を向ける暇もなく,好くも悪くも新規に一斉スタートする形をとった。(原子力キーマンの火力現場実習はその前にあったが,実働部隊の火力からの大量移転はなかった)


 

結果系:原子力は国策の大事な御曹司 火力は供給の働き蜂,やがて競争の尖兵

その後の約20年間の両者の推移を述べることは煩雑で困難だ。大まかに結果を現在から覗ける部分だけでも遡行して眺めよう。

火力から先に片付けるが,高度成長一方でウナギのぼりの凄まじい電力需要の伸び,なかんずく夏のピークへの供給対策の担い手として長年,筆舌に尽くしがたい活躍をする。夏は大気, 海水温度も高く設備の能力発揮の難しい時期に停電させまいと頑張り続けた。この昔からの電力マンの意気込みは,最近競争相手になったPPS独立電気事業者)の方には理解されようもない。やがて‘95 年電力自由化第一段の尖兵として「その地域で発電原価が劣る計画は認めない」とのお達しがあり,失職の心配が火力のコストダウンを進め,贅沢病が消え自己改新した。この苦労人の努力は,全く喧伝されていないが,この点,寡黙の大人である。幸いコンバインドサイクルという革新技術のお陰で部門崩壊の防波堤はできたが,それ以外の老兵火力の予備役化はいまも急速に進んでいる。

一方,原子力は発電力比率ではまだしも,電力における意義が第2次石油ショック以降,エネルギー面での国策民営の柱として,国も会社内でも一躍寵児,大事な御曹司になった。だが,この頃でも,現場は導入当初から未踏の体験で四苦八苦の苦労を重ねていた。火力に比べて,圧力,温度は格段に低いが,耐食性に強いと目されていた新素材の金属が経年して分かった悩み(応力腐食割れなど)が最近まで続いた。立地地点は超過疎地帯で,加えて放射線管理のための管理区域規制が厳しい独特の環境が職場文化を大きく変えたことは否めない。


 

官民揃ってエリート意識が閉鎖社会に いつも新品同様の神話はいけない

なんと言っても,今もって原子力=放射能=事故のコトダマ心配が世界唯一の被爆国( 筆者はこの言葉が依然,多用されているのを嫌うが)であるだけに,官民揃って原子力の重要性キャンペーンを始め, 電力会社では全社員を動員して原子力PA に取り組んだ。

この頃から,いつしか「いつも新品同様の原子力」という表現が世間に流れ始めた。これは冒頭のコトダマ論で紹介したが,この発言の繰り返しは,願望・連想・錯覚を生み,自己催眠にかかり,肝心な営繕も手抜きになりかねない。今後は絶対に慎むべきである。運転開始したら新品同様はありえない。「一切の削り屑をも除去します」といった世間向けの安心論を振りまくようでは,コトダマ社会は直らない。技術屋はファクトとできること,そして結果の安全性をはっきり言うべきである。


 

原子力に一番影響するのは外部からのコトダマ圧力だ
 事件,事故のたびに行政側の監査,検査体制が強化され,また事業者側もこれに呼応して恭順に内部の安全,監査体制の改革を進めてきた。

自由化で電力の他部門の職場のスリム化,多能化が徹底してきているなかで,原子力部門に限って逆に内部組織のメッシュ化がはかられた。責任分担は従来どおり縦のまま,それに安全を横,モラルは斜め,というように,指示と情報がメッシュ構造の肥満組織のなかを行きかう現状では,現場マン(解決を極力,現物,現実主義でみる人間)にとって責任発揮の意欲を喪失し,情報の職場内の徹底すら困難になっている。コトダマ社会向けの規制の改善は形式主義優先で,現場主義ではない。


 

現場マンはラストマンたれ ロッテ・バレンタイン監督に学べ
 「俺がこの設備を見る最後の男」,ラストマン。そして今年のプロ野球のロッテ,バレンタイン監督,サッカーのジーコ監督をみよ。現場マンの意気は,俺がその難題をさばく,難飛球のファインプレーに燃える。とっさの時に隠れた実力を発揮する場を好む。今の原子力現場にはこの雰囲気が全くない。

現場マンは裏打ちされたデータ,客観的観察,競争の原理,こういう職場で育ってこそ生き甲斐を感ずる。今の原子力は「モノ言えば唇さみし。下手に言えば問題になる」の懸念があり,加えて何でこれほど些細なことで自分の上司がお役所や自治体に赴き大層な議論になっているかと知る度に,今の原子力職場は現場マンから離れている。本来,大事なのは現場のファクトであり,再発防止の鍵は現場にあり,決して「言い回し」にはないはずだ。


 

火力並みになれるか? 原子力には扶養家族が多すぎる
 私のキセル原子力屋に課せられた難問,卒論テーマ「いま日本で急に原子力が火力並みの取り扱いになったらどうなるか?」。これは全く架空の質問だが,頭のドリル。

この答えは「即答できない。なぜなら大問題発生!」。日本の中枢,高級部署で目標が喪失,沢山の失職者が続発…官庁組織,マスコミ,顧問団の先生,評論家,どこもかしこも。これが小泉首相のいう守旧派になり,「まだまだ原子力は一人前でない」というだろう。

所管官庁の担当者は転勤が早く,かつ原子力は技術的にも国際関係もあり高度かつ専門度も高く広い。このため国民やマスコミへ説明責任を果たすために学識経験者,知名な教授陣に判断,解説を求める仕組みが長年にわたってできた。他の部門でも,専門別に顧問の先生方は沢山いるが,企業の知的所有権,ノウハウとからみ,行動にも節度がある。原子力に限っては,安全を巡ってオープンな国民議論,マスコミの話題になるだけで,収束性がない。

結果として,一つの事故, 事件のたびにこの機関, 委員会も肥大化し,臨時組織も常設化し,結果として膨大な組織が存在し,事あるたびに,それぞれの委員会コメントが発せられる。権威者の対応には勢い事業者側も高位,高年齢層の職位者が当る。いずれにしろ,誰かがこの膨大な扶養家族を扶養しているはずで,この面からも原子力は特有な産業界。全部を競争原理に乗せる段階ではない。


 

「すべてオープン」は隠蔽、改ざんという言葉の反作用

加えて,細事もらさず,すべてオープン( 情報垂れ流し)方式に,原子力業界は動いているが,これは隠蔽,改竄というコトダマ社会の決め言葉の反作用と,すべての事象を即刻遅れなく連絡せよ,という社会要請でできた対策である。私は技術系だが,漏洩,腐食などの事象をすべてオープンしても,原子力,火力とも構成要素が何百万の設備にとって意味がない。推定される事象の結末や推移の判断のない,いわば脈絡のない情報の“みだれ発信”では件数ばかりで意味がない。第一に,一般の国民,周囲住民も興味がないだろう。実際問題として,「大事なことはすべて話しており,隠し事はない」ということは,双方に大人としての信頼感があって初めてできることだけに,まだまだ工夫と努力がいる。

原子力情報を載せるために原子力立地県の地方紙にはスペースがあてがわれている。この余白は,ぜひ油の危機情報など,国民を覚醒する記事に替えていくべきだ。早くそういう状態にならぬかと望みたい。


 

確率リスク論 ヒューマンエラー論

原子力には,いま2つの特別で高級な理論と研究の分野があるが,日本の大衆にはまだ馴染んでいない。依然として原子力屋の内部議論である。しかし, 原子力は過去にも,確率論や数学の部門で派生的に科学分野を進歩させてきた。核反応現象は社会のランダムな現象に通じ,また膨大な演算を可能にするための数学,コンピューター機能を進化させる副次効果で大いに貢献した。

@リスク論は微少確率でも,チェノノブイルのような甚大な影響があるので大事故想定の解析には重要だが,10のマイナス7乗 すなわち1千万分の1というような議論は一般人にはまだ馴染まぬ。交通事故,飛行機事故などとあまりに桁が違いすぎ,結果として,完全無欠,潔癖症の日本人の議論にまた戻ることになる。

Aヒューマンエラー論は,改めて科学として原子力で熱心だが,人は神でない,チョンボも錯覚もある。これを直すには訓練と教育(特にモラル)しかない。

要は,原子力屋の内部論理と議論が一般に咀嚼されずに独りよがりになると,世間から離反する。特に囲碁,丁判賭博の日本人のDNA には馴染まない。生きた愛すべき人間にミスはつきモノ,これをケシカランと怒るだけの人は現場から遠い。巨大損失を出した証券売買の入力ミスは注意しても続発している。設備にも商取引にも防護システムや安全系ロジックが要る。


 

検査と改善は過去のデーターベースから 地についた検査を

日本の54基,海外数百基と,軽水炉を中心に実績は十分あり,さらには長寿命化が挑まれ,経年劣化データも豊富になっている。

現場の安全性の評価にヒューマンエラー論,考えられる想定の事故,確率[リスク]論といった高級な観念論でなく,一般産業並みに(火力と同様),すでに発生した異常事象や誤操作の究明と再発防止策に注目し,これを品質管理手法で究明し,改善策を模索する方がよほど地につき効果が早い。また国の検査制度もこれに合わせてゆかねば,労多くして益少ない。いたずらにリスク論やISO 手法に重きを置きすぎた現行の傾向は,「検査が正常に行われている立証になるが,肝心の設備の診断」からは遠くなってきている。双方に無駄な膨大な人力,資料作成から早く改善して欲しい。

 


不信感は規制強化ではなく自主管理で性悪説,悪代官は過去のこと
 発電所従業員は,日常,設備のなかにいる。従業員も人間,自分の安全が第一である。また刻々の設備の具合を日常,五感で感じて仕事をしている。たしかに,いったん隠蔽,改ざんなどモラルが地に落ちた時代もあったが,このために性悪説的な制度を続けるようでは日本の技術屋は情けない。あくまでも設備保全は自主管理が基本で,自立責任体制の確立こそ第一であり,この民間の仕組みを国は,審査,診断する方向へ持ってゆくべきである。

そして,まだ仄聞するが,日本の社会に根強く残る,検査官はお殿様という官尊民卑の風習は全く世界では通用しない。検査官と現場は一体となって,安全運転と稼働率向上を国内で競争し,ご褒美を出すような時代に早くなって欲しい。


 

自警団「原子力技術協会」の発足 原子力産業会議の改変
 昨年の「原子力技術協会」の発足は原子力界の新しい動きであり,またこれに呼応して原子力産業会議の革新が進んでいる。レンブラントの名画「夜警」登場の自警団よろしく,事業者の安全操業に目を光らせ,火事(事故)の未然防止に努めようと発足して半年,今後の活躍を期待したい。

この協会の発足の趣意書には全電力の総意で資金,人材を提供し,組織化されたが,なにせ,人, 物,金も限定の精鋭部隊編成であり,任務は現場のファクトを収集分析し,対外的に公表し,電力内部には指導的なアドバイスをする団体である。発足以来,機会を作っては当協会のメンバーや現場マンと再々討議して感じた問題点は,協会と現場間の蜜なネットワークの早期構築に尽きる。従来の電事連ベースでの長年の実績で馴れきっており,新顔の新協会との交流にまだ戸迷いがあるだけなので,全体の人材資源で効果を出すよう電事連と一緒に相談すべきだ。

(この技術協会発足と今年半ばに予定されている原子力産業会議の改組は原子力界の40年ぶり改新の一大イベントであり,これまでややもすると事件毎に,団体,会議体,監視センターなどをいたずらに増殖し続けてきたのとは全く趣旨も目的も違う。この両者が発足,揃って日本の原子力界に新風を入れ,近代化,機能化することを切に望みたい)


 

まとめ

「化石」から「核」へのパラダイム移行 天動説の議論と違い今回は命がけ

私の職歴は,50年まえの戦後復興,飢餓からの脱出期に始まる。原子力はまさしく救世主到来に見えたころである。当時の世界人口は25億人,今は63億人,50 年後には90 億人,そして地球は温暖化に病む。高度発展,大量エネルギー消費の文明に慣れきった人類。この世界で,資源・環境制約から見て理想の「原子力とそのリサイクル」技術こそ,急速に忍び寄る危機に対して,最も手堅く,かつ手っ取り早く乗れる救援ボートである。これを信ずるか否かはその国の国民の心と判断力である。

ガリレオガリレイの天動説の議論の時ですら約1世紀かかった。しかし,今回の議論は人類の死活論である。パラダイム論戦を悠長に楽しむ猶予はない。本稿はコトダマの悪い意味を強調して論を進めたが,オイルピークを信ずるのも心であり,世界の鼓動は素直に耳で聞こう。世界は一斉に動き出している。


 

世界から揶揄されている日本

いま世界で石油ピーク論は常識。この提唱者M.Simons氏は「砂漠のたそがれ」に続き今年の年頭にも,「世界第3の石油消費,80 %中東依存の日本」に特に触れ,「誠に危機意識の不感症で夢遊病者“sleepwalker”」と揶揄っている。

日本は無資源で努力シロがないのですべて最初から傍観か? 確かに第2次危機の280 円時代とは違って今は円高,ショック度も低い。しかし,この先は資源問題急変で崖ップチ目前。世界中が動いているのに日本だけは,誰かの強力コトダマ催眠剤で,国民はまだ眠っている。何も言わねば,今の自分に何も損はなく危害もない。『黙りこくって安眠したあと,また皆で大本営発表を聞こう』という,60 年前に嵌まったコトダマ流儀の愚は,今回はとってはならない。


 

ドッグイヤー別の年齢層懇談で感覚の違いを知る
 辻説法は1年余で45回,学生から初老までを対象に講演し,続いて同じフロアで極力年代を層別し懇談した。話し合って分かったことは,今の日本人は似た顔していても,急激な時代変遷,生活膨張で,年代別, ドッグイヤー(犬の寿命DYとして15年刻み) ごとに人種も違うくらい意識が違うことである。大晦日の紅白も選曲で苦労するはず。この断層は,国の教育,年金制度など,すべてに年代間応力を作り,世代の主張,行動規範,モラル,すべて変えている。私は今回の懇談でつくづく感じたが,世代別特徴には触れたくない,皆日本人だから。だが,問題は,このハイブリッドの年齢断層を貫いて国民総意を取る難しさだ。

 

DY0   昭和一桁 終戦・飢餓体験,ストイック,単一右肩上がり高度成長期。登坂機関車,いまや稀少。

DY1  50 歳台 団塊の世代以降,戦争を知らない子,同期競争の時代。

DY2  35歳。中核働き盛り。国歌国旗忌避,バーチャル感覚。新勝ち組はM&A。DY3  今新成人。卒業年度。新しい愛国心。私と50歳違う。

DY0とDY3は爺さんと孫)


 

卒論テーマ「コトダマ」を50歳違いの学生(DY3)と約束

今回の卒論テーマ「コトダマを正そう」を選んだのは,実は昨年12 月,とある地方大学の懇談会での席,私とは孫の年齢,50歳違う今年の卒業生たちとの語らいの時。最近は初対面で素直に意気投合しあうのは,なぜかこの年代ギャップ間(私=DY 0と学生=DY3)で多い。家庭でも同じで,父・息子は口も聞かぬが,爺・孫はベッタリ。しかし,私は,若干,若い世代に新しい違った意識の芽生えが出始めたように感ずる。彼らは「豊かな時代はもうない」, そして,その極限を聞くには,飢餓を実体験した,今は希少になった御爺ちゃん(DY0)たちと気付いたのかも。働き盛りのオヤジ・おカアさんは,いつも常識論ばかり,勉強せよ,真面目にやれ,いつもウルサイだけだ。

懇談会のおわりに,半世紀ズレの同志で同時に卒論「日本人はオカシイ,コトダマを正せ」を書こうと約束し,初雪が舞いだした地方都市の深夜に別れた。


 

国は統率力を 将来のセキュリティ確保の政策責任を

世界のこの1年間の原子力での急発進をみて,わが国が落伍しないよう先行的に指導, 実施するのは,やはり政治であり政府である。原子力は先述のクレジット( セキュリテイとCO2)を発揮すべくまさしく正念場の出番到来,化石から核へエネルギーのパラダイムの移行の時期である。

このためには,国にはエネルギーの将来展望と危機管理に対処する強力な推進母体が要る。先回の省庁再編時に私は参入したが,こと原子力については一歩後退し,以前に比べて国策の審議と執行権とが分離された。また今後の要となる高速炉開発などは, 所管が文科省と経産省とに分掌されている。今後,資源確保と諸対策の推進のためには,国の超長期展望を見据えた「国家エネルギー戦略会議(仮称)」が必要である。

いま,また省庁再々編成も噂されており,時代即応で統率執行権のある強力な「資源エネルギー省(仮称)」を格上げ創設する。また,この要の一つの高速炉開発についても,この「省」が一括して扱い,早い時期に「実用化推進組合」を発足し,多年度にわたるロードマップの開発事業を強力に推進する。また,本稿の私案でいろいろ提案させて頂いた21世紀のバックエンド全体の総合化について,管理方式と推進体制を国の強い指導力で進めて頂きたいと思う。

 

最低ボトムは底に足が付く だから跳躍の時期
 約半世紀前の入社時は花の原子力時代,周辺から「いいテーマを天職に」と賛美された。30年後,火力から原子力に戻った時,「難しい仕事,ご愁傷さま」とも聞こえる挨拶を受けた。吸い口の甘さ,夢の原子力は,この間にヤニで動かぬ状態にさま変わりした。日本人同志が墓穴を掘り,そこに「コトダマ雪崩( なだれ)が来た」と“ キセル原子力屋”はあえて表現させていただいた。シニカルな表現の遊戯でもなく,また飢餓体験の老人のお節介でもない,ただ民族の先の光明と安寧を祈る一心で,本稿では蛮勇をふるって荒っぽい文章を記した。

慢性コトダマ病の治療は,成人病対策に似ている。日常の摂生と不用意な暴飲,暴食を慎むが,激薬は不要。また,この対策はまず自分を制し,これからは昔流行った賛成・反対の論戦バトルショウはいまや不要だ。5%の固定反対派の存在はモニター役で結構。推進派を5%とすると,あと残りの90%のモノ言わぬ,何かあると一挙にコトダマ雪崩に乗りたがる大衆の意識を変革することが最大の課題だ。

私は全国で辻説法45回,累計3500人ぐらいの前で喋り懇談した。賛同率8割として,総国民の対人接触比率はこれでも20ppm程度だ。皆さんと共同歩調をとらないと90% 相手には全く多勢に無勢。だから,これまで些細な事の弁解,弁明に自閉症がちになった原子力関係者よ,皆さんが隠れキリシタン流儀では困る。もっと正論・正鵠を堂々と吐き,ディベートをして周辺の理解を広げよう。コップの中の高級すぎる議論はさておいて,皆と目線のあった炉辺談話で石油の将来, 原子力の役割など理解してもらおう。

先の光明の道,危機ヘの分岐の道を知りながら沈黙を通せば,将来の最悪を望まないが,国民が危機到来で総ショックの一大事の時に,前から知っていたはずだと不作為の罪で糾弾されよう。

だから有志,勇士,憂師諸君は,勇敢に率直に語ろう。皆さんが懸命に実務に奮闘,努力する日は,もうすでに来ており,その日を作るのも皆さん自身だ。

 

Email:tetakeut@kamakuranet.ne.jp

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6.2 人類エネルギー問題解決のために原子力技術の伝承を益田恭尚)

 

(1)はじめに

「人間は経験の動物である」とは上手いことを云ったものである。

総ての科学技術は、時代々々の必要性から、あるいは努力と感性に伴われた偶然の発見に刺激され、志を同じくする多くの科学者・技術者の競争と協力と失敗を糧に発展を遂げ、人類に貢献してきた。原子力研究もその例外ではない。

レントゲンのX線発見(1995年)は物理学者、医学者により熱狂的に取上げられ、物質の本質を求めた研究を開始した。その研究の成果は競って学会に発表され、それをもとに更なる研究を刺激し、原子物理学の基本が完成していった。原子力研究にとっての不幸は、その最終段階において、第二次世界大戦の暗雲が迫り、オープンな環境で進められてきた研究が、原子爆弾の開発という思わざる方向に向けて秘密裏に進められることになったことである。そして遂に、原子爆弾の投下という歴史的な結果に繋がってしまったことは残念なことである。

この偉大な力を平和目的にも利用すべく戦勝国は研究を続けたが、敗戦国の日本は総ての原子力関連研究が禁止され、研究成果へのアクセスさえもままならなかった。

195312月に、漸く、米国大統領アイゼンハウアーによるアトム・フォー・ピース宣言が行われた。わが国はこれを受け、超党派の議員団による海外調査を実施し、議員立法による原子力予算が通過・成立した。引続き、原子力基本法を始めとする法律が整備され、関係機関が発足し、原子力の平和利用のための各種開発・研究がスタートしていった。

戦争中の空白期間を含め、欧米諸国に10年以上遅れた再出発は、新に人材を集めることから始まった。文献調査、放射線計測を含む放射線関連研究、加速器の建設とその利用研究等、順次研究がスタートしていった。これと並行して、原子炉についての研究も行われた。研究用小型原子炉導入からスタートし、国産研究炉の設計・建設に続き、欧米からの動力炉の導入等を進めた。このような経緯から、わが国の原子力開発は、スタートの10年の遅れに留まらず、欧米技術の遥か後塵を拝する結果となってしまったのはやむを得ないことであった。

 

(2)原子力発電開発過程における経験

1965年に至り、米国において軽水炉の経済性が立証されると、わが国でもこの技術を導入し軽水炉を建設する気運が芽生えていった。彼我の実力の差は大学生と小学生の差以上であった。一品生産の品質管理の考え方を始め、正にゼロからのスタートであった。そのような状況下でプラントメーカーは、発注者である電力事業者から、米国設計からボルト一本変えるなと指示されたが、それに従わざるを得なかった。建設がスタートすると、先生と思われていた米国技術もまだまだ開発途上にあり、原子炉本体については一応なんとかこなれてはいたものの、プラントの他の部分の設計が工程に間に合わず、契約スコープ外の協力が必要であることを経験した。その上、米国技術に従えば万事OKとはいかないことが、順次分ってきた。例えば、廃棄物処理系等は基本から開発し直さなければならないことが明確になった。また、特殊バブルなど米国プラントメーカーが購入しているものと同一製品を購入しても、所期の性能が得られず、改良や新規設計が必要であった。

運転を開始すると、いろいろな点で電力会社の満足が得られないことは勿論であったが、許認可責任のある監督官庁からもこれでよいのかとの声が挙がり、1975年には官民一体の改良国産化計画がスタートすることになった。設計不具合点の改良に対処するため、電力共同研究制度が発足し、電力・メーカー共同で研究を実施する態勢が整っていった。

改良・標準化委員会の場に、システム設計から機器設計に至る、までわが国の実情に合った改良案を提案し、新規プラントを改良をすると共に、運転プラントへのバックフィットも進めていった。その結果、運転性能、保守性など総ての面で大きな改善を成し遂げ、この成果は、諸外国からも注目され、わが国としても漸く技術的にも一人立ちできるようになっていった。

わが国の原子力開発はこのような経過を辿りながら、比較的順調に進んできたといえる。しかし、ここ数年、わが国の厳しい要求に対し、十分な対処ができず、諸外国に比べて稼働率等のプラント実績において遅れをとっているのは誠に残念である。

新設プラントの状況をみてみると、電力需要の伸び悩みもあり、新規建設が極めて少ないという状況を迎えている。発電コストは他の発電方式に比べ安いにも拘らず、原子力発電所の建設が進まない一因は、住民パワーの増大により新サイトの確保が益々難しくなっている点である。しかし、もう一面は、電力経営者として、電力自由化の影響から、初期投資が大きくバックエンド等についてリスクのある原子力発電所の建設を躊躇する傾向が生じている点である。

一方、世界のエネルギー事情は益々厳しさを増している。石油価格の高騰を迎え、多少の遅れはあろうが、天然ガス価格の高騰も避けられない情勢にあると考えなければならないであろう。資源の点から見ても、地球環境の点から見ても、遠くない将来、人類は原子力エネルギーに頼らざるを得ない状況にあることが顕らかになりつつあり、世界各国で原子力ルネッサンスの動きが出始めている。

わが国においても、差当りは新規プラント建設の必要性は低いとしても、運転プラントがその寿命を迎える時期の到来は間近に迫っており、この建替え需要に対処しなければならない状況にある。近い将来、新規原子力発電所の建設が必要になる事態が訪れることに議論の余地はないのである。

このような状況から考えられる、わが国の原子力発電所建設の停滞は、技術伝承という面からみると、大きな危険を孕んでいるということができる。識者の間では、わが国の新規プランと建設の停滞に対しては、運転プラントの改良、原子力プラントについての研究・開発の継続により有能な人材を確保する一方、海外のプラント輸出に積極的に乗り出せば対処可能であるとの議論が行われているやに聞く。また自由競争という立場からいうと、わが国で再び原子力発電所の新設が必要になった時には、世界の中で生き残っているメーカーに発注すれば十分対応可能であるとの意見も聞かれる。

本当にこのような考え方で問題ないであろうか、大きな疑問を感じざるを得ない。

輸出プランとの受注ができればそれに越したことはない。わが国のプランメーカーも今までも、また現在もそれなりの努力を続けているが、現在までの実績は皆無である。プランと輸出は資金供給に始まり、燃料供給、使用済み燃料の処分、核拡散防止等、国家の総合力の成果であり、今後も努力を続ける必要があるものの、輸出だけに賭けることにはリスクが多すぎる。

研究・開発等により人材を確保しておけば再立ち上げは容易であるという考えについては次のような点から当を得ていないものと考える。先ず、原子力発電所の建設は正に総合技術である。炉心設計、安全設計を含むシステム設計、配置設計、機器設計、計測・制御技術、建築構造設計に始まり、材料技術、水化学、溶接を含む製造技術、建設技術、工程管理と、これらを総合した品質保証技術を維持向上させていくことが必要である。運転プラントのメインテナンスで技術伝承できるものはこれらの内、ほんの一部に過ぎない。プラント建設という実経験を伴わなければこれらの維持向上は不可能であり、技術者だけを集めても正に“仏作って魂入れず”という結果になるであろう。

卑近な例を挙げてみよう。機器製造という点で、原子力発電所に使われるポンプやバルブは多種少量生産で、火力向けに比べても厳しい仕様を要求される。原子力発電所の建設が比較的多かった時代でさえ、発注量が少ないため専門メーカーは経営が苦しかったが、運転プラントにたまに必要な交換部品の供給をするだけでは経営が成り立たなくなる。専門メーカーによる、原子力向け機器の供給が不可能となる事態の到来を危惧するものである。圧力容器等に使用する大型鍛造材を供給について考えてみても、世の中の輕・小・短・薄という時代の趨勢により、現在でも世界中で大型鍛造材メーカーは限られ、益々寡占化が進んでいる状況にある。これ以上の市場の冷え込みが続けば、需要増大が起こった時、世界の市場は需要に応ずることができないであろう。このほか需要の少ない材料の供給問題は深刻な問題を孕んでいる。例えば、メカニカルシールの材料であるカーボン材は、従来のカーボン・メーカーが製造を止めたため、性能の良い製品が得られなくなり、メカニカルシールの寿命に大きな影響を与えている等はその一例であろう。

溶接技術は原子力発電所の性能を左右する重要技術である。わが国ではプラントメーカーが資格を有する熟練溶接工の確保に注力してきたが、何年もかけて築いて来た熟練溶接工の確保に深刻な影響が出始めている。米国等ではかって溶接工を各サイトのレーバー・ユニオンに頼らざるを得なかったため、プラント性能と建設工程に大きな影響がでていたことを忘れてはならないのである。

日進月歩の制御・計測技術への対応についても難しい問題を孕んでいる。技術の停滞が許されない反面、原子力には余りにも複雑な厳しい要求がある。この点を熟知し、技術を向上させていくためには、技術伝承を通して段階的改良を進めることが極めて大切である。

システム設計になると問題は更に深刻である。過去のプラントと全く同じ設計をすればこの点は解決できると考えられるかもしれないが、プラントは生き物である。常に予期せざる事態が発生する。そのような時、何故このような設計を採用したかが分らなければ、臨機応変の対応は困難である。更に、プラントの性能向上、コストダウンに対処するため、新しい考え方で、優れた新プラントを設計しようとすればなんといっても設計経験がものをいうことになる。

わが国が進めた改良と、わが国特有の過度な品質保証要求に合わせ、贅沢になってしまったプラント仕様を、国際競争に打ち勝つためには世界標準に戻し、合理的なプランとを設計しなければならないという要求が高まっている。そのためには、設計変更の妥当性を明確に示さなければならないであろう。過去の経緯を理解し、変更することについて的確な評価ができなくてはならないのである。

建設技術は正に経験の蓄積である。従来、わが国では建設工期は厳しく守られてきた。プラントが大型化し、複雑化しても工期はむしろ短くなってきている。これは、設計段階から従来の経験を蓄積し、建屋の建設技術者とも協力し、新方式の建設工法を採用し、これらの総合の上に改善を成し遂げた成果であり世界に誇り得るものである。技術の伝承なくしては不可能なのである。

技術伝承が必要なことは、プラントの基本設計と建設に総合的な責任を持つ電力事業者についてもいえるのではないだろうか。何年も新プラントを建設しない電力事業者の技術者が果たして適切な指示ができるであろうか。また、許認可を担当される、監督官庁・学識経験者についても過去の経験がなければ基準のみに準拠した厳しい評価はできるとしても、適切な評価と管理は不可能であろう。

1965年代にできたことが、経験が蓄積されドキュメント化も進んでいる現代においてできないはずはないという議論が出てくるであろう。その点に付いても触れておく必要がある。当時と今では状況が全く違うのである。当時は原子力発電所に対して現在と同様な厳しい世論も存在していた。しかしその中にも、官民一体となって原子力を推進しようという夢があり、人材も集めやすく、協力会社も積極的に協力する状況にあった。その上、少しくらいの失敗は、説明責任さえ果たせば、多少大目に見る雰囲気があった。そして、トラブル解決に付いても電力共同研究制度のもと共同で解決法の研究を実施した。メーカーも将来に向けての投資ということで開発研究に資金を投入し、研究用原子炉まで作った。

現状をみるに、これが正常とはとても思えないが、原子力は悪という雰囲気まで感じさせる世論が主流で、原子力を志す学生は親からも反対される。原子力発電所の水漏れさえも許さない雰囲気であり、このため長期停止にまで追い込まれる。本来トラブルの種を出し尽くすために実施する試運転も、計画外プラント停止は勿論のこと、ちょっとしたトラブルも許されない。こんなことでは新しい物の開発などはとてもできない状況にある。

先行プラントと全く同じものを作るとしても、数年のブランクを経れば、乗り越えることに大きな困難を伴うであろう。

 

(3)おわりに

好むと好まざるとにかかわらず、世界は原子力に頼らざるを得ない時が必ず訪れると考える。エネルギーセキュリティーという立場で、国を挙げて原子力発電所を計画的に進めていく努力が必要である。

伊勢神宮は20年に一度の遷宮が行われ、遷宮に併せ、各種の武具や装飾品も作り直される。誰が20年という期間を決めたのかは定かでないが、この20年間の間に技術の伝承が行われ、その繰り返しにより、千年以上に亘り技術が綿々と伝承されてきたとのことである。

技術立国をもって任ずるわが国としては、技術を伝承しさらにこれを発展させて、経済的にも、性能的にも優れた原子力発電所を建設する実力を備えることにより、これを武器として国際社会に貢献していくことができるものと信ずるのである。

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6.3 日本の原子力広報を憂う森 雅英)

 

 原子力関係者にはよく知られていることではあるが、原子力施設の事故、故障の大きさないしは重要度について、国際的な評価尺度(INES)がある。地震の震度階級と同じように0から7まである。大きな違いは国民の理解度である。震度1や2では誰も心配しない。ところが日本では原子力の事故、故障レベル1や2,3の事故でも大騒ぎになり、時として数ヶ月、時によっては文殊のように10年以上も停止を余儀なくされる。レベル0の事象でも新聞を賑わすこともある。これに対して欧米ではレベル1や2で社会問題になったり、責任問題になることはない。

 

 ちなみにINESでは、レベル4〜7を「Accident」、レベル1〜3を「Incident」と呼んでいるが、日本語では「Incident」にぴったりと対応する言葉はない。ということは日本人には「Incident」という概念そのものがないのだろう。原子力界では「Incident」を「異常事象」と呼んでいるが、日本語として定着しているとは言い難い。筆者は便宜上このペーパーでは「事故」、「異常事象」を含めて事故、故障と記すこととする。

 

原子力施設で何かがあった時に、これは「事故」ではなく「異常事象」と言おうものならマスコミから袋叩きに合うのは目に見えている。日本では「Incident」やそれ以下の事象でもマスコミも国民も過剰に反応することが多い。この原因は日本が被爆国であるが故に国民は原子力に過敏に反応するのだという人が多い。それも一つの要因だろう。しかし、原子力を推進してきた我々側にも責任があるのではなかろうか。以下、筆者の私見を述べる。

 

 日本では原子力施設がいかに安全かをしきりにPRしている。 社会的関心を呼ぶ事故があるごとに、「これこれの対策をとったので、二度とこのようなことは起こしません」と言いつづけて来た。蒸気発生器の細管が破断するようなことはありません、ナトリュ-ムが漏れることはありませんとさんざん広報してきた。 その結果、美浜で蒸気発生器細管が破断した時には連日新聞の第一面を賑わせていた。もんじゅの場合はナトリウム漏洩の結果高速炉開発は10年も滞った。

 

これに対してアメリカでは事故は起こるかも知れないと広報し、住民の理解を得ている。大事故時の待避方法、退避場所等を住民に周知することに大きな努力を払っている。 新しく近辺で家を購入する人にはこのことを知らせるように不動産屋さんにお願いしている電力会社まである。結果として、退避を伴わないような事故、故障は、その程度のものと住民に受け取られている。 

 

 日本と欧米で国民の事故、故障に対する反応に大差がある原因は、日頃の広報の大差が大きな要因であろうと筆者は思っている。日本では、透明性、公開性をいうことがよく言われるが、原子力界は他産業に比べてこの点では進んでいると筆者も思っている。医療の世界ではインフォームドコンセントということがよく言われているが、この点では日本の産業界は遅れているのではなかろうか。リスクを知らせることを避けていては、原子力の未来はないと思うのだが・・・

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6.4 入学試験問題に“原子力”と“放射線”を!(竹内哲夫)

 

石油がピークを越え、急速に減衰、そして地球環境問題。世界の先進大国では、いまや原子力と高速炉リサイクルに熱いまなざしでルネッサンス時代を迎えようとしている。いつも、政策決定に周回遅れの日本でも、無資源国ゆえに、今回、もしやこ問題に無頓着、無視を押しとおせば、糧食・エネルギーが尽き果てる日、情報グローバルの世界舞台の前で一億国民総自決劇の実演となろう。

 

過去に戦乱と飢餓を体験した、昭和一桁、シニア族は心配症で、日本民族の行く末を案じ、最近ではボランタリーで50歳違いの若い学生との対話集会を始め、約1年間、都合8大学、約300人の学生と懇談した。彼等は主に原子力、エネルギー環境専攻、中には就職内定者も居たが、ここでシニア族が驚愕、落胆したことがある。それは、戦後日本の世紀の過失、無作為の罪とも言えるが「原子力、そして放射線教育の不在」の問題がある。

 

筆者の過去の原子力委員時代にも、多くの人が指摘したので、関係省庁に実態を問い合わせたが、その答えはいつも「心配ご無用、教材も完備」だった。しかし今回の一連の学生対話で、はからずもこの杞憂は深刻な憂慮すべき状態と発覚した。なぜなら、今、原子力専攻の学生に、数年前までの教育受講の内容を聞くのは極めて信憑性の高い個人面接アンケート調査である。・・・・中には反核教師からのチェルノブイル、JCOの恐怖などの特講の内容まで縷々語ってくれた。・・・・

 

 聞いて愕然、だがこの程度で反骨シニアは諦めぬ。なにせ、これから社会に巣立つ若い原子力専攻生が、卒業以前から既に背負っている家庭や社会から受ける冷たい目、偏見の圧力、「なぜ原子力以外の進路をとらぬか?」という声の存在はただでは聞き置けぬ。若鶏は、明日のエネルギー枯渇時代の救世主、闊達に羽ばたくには、この不条理な冷ややかな差別視を一掃せねばならぬ。シニアと学生との議論は続く。この元凶は戦後から被爆国日本に60年間ズッシリ根を張った反核教育と、これからの是正策を取り上げなかった社会体制全体の不作為の罪だ。

 

今、エネルギー危機を前に特別な愛核キャンペーンが要るが、それ以前に一般国民の多くは、半世紀以上の「ノーモア原爆」陶酔の麻痺中、危機意識を感知する以前の重症疾患ではないか?この瀕死の虚血性の昏睡状態にはカンフル注射が要る。シニアと若い学生での甲論乙駁の末、一番即効性、費用対効果、且つ実現性のある覚せい剤注射はなんといっても、手っ取りはやく「入試試験に“原子力”や“放射線”の出題をする」事だった。これで、若いヒナ鶏、受験生、更にはこれを追う高中学生、塾教師は驚き、効果抜群だろうという結論だった。

 

文部省通達、教育委員会の是正勧告、といった月並み恒例の方式ですすめたらいつになるか? それどころか、世代間の核に対する感性の断層もある今日、国民総合意はなどは所詮無理。日本には、このような時の、手法と英断で率先垂範のリーダー小泉純一郎首相がいる。「守旧派を出し抜き、先にやってみる」手法だ。

 

拙著別掲の「”キセル原子力屋”の卒業論文」に一早く、賛同、呼応された放射線医学の大御所からのメッセージをここで紹介しよう。

「思い切って原子力推進の持つ意義をよく理解させる論文を書いてくれました。我々原子力の利用を推進して行こうと思う者は同感しきりです。日本人は世界で唯一の原子力爆弾の被曝経験者であるために、必要以上に、原子力、放射線というものに極端なアレルギーがある。何の理屈ナシに、感覚的にすべてに拒否反応が先立つ現状を何とか打破しなければならない。この現状は、原子力を正しく伝える事をせず、逆に恐怖感を与えるような報道をしている左翼系ともとれるマスコミ報道の責任が非常に大きいと思います。

かつて、昔、学会で教育担当理事の頃、当時の文部省に対し、原子力や放射線に関する正しい教育と啓蒙を、教科書に取り入れてくれるように再々要望したが、その都度、次回の教育カリキュラム改定のときに考慮するといった、返事ばかりで、日教組や反原発のグループの顔色が気がかりか、実行された験しはありませんでした。また、国立大学の入試センターにもセンター試験で放射線に関する問題を出してくれるように要望書を出した時も、要望を聞き置くというだけ、ナシのツブテでした。」

 

 今、教育問題は、正攻法では百年かかる改革。百年放置すれば、日本人は少子化を超え、エネルギー・食料問題で自滅の道を行くでしょう。放射線にはアポトーシスという細胞の「自殺行為」があるが、その存在ゆえに周辺の細胞組織に更に強く生きる活性刺激を与えます。既に電力の3分の1が「原子力発電」、そして、これ以上に経済効果が大きい「放射線利用」、このいずれも未来を担う日本の子供達の勉強の目標になってない現状はまったくの不合理です。これを打破するため、心ある先生(教授)は是非入試問題として出題してください。その先生の行為は決して蛮勇ではなく、日本にアポトーシスを超えたホルミシス効果として利く筈で、シニアも学生からも拍手喝采の声援を送ります。(以上)

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6.5 エネルギーの国家戦略と 教育を考える(小川博巳)  

 

 昨今の原油価格の高止まりは、昨年半ばに纏められた「2030年のエネルギー需給展望」の略二倍を維持しているが、それにも拘らず我国の政治にもマスメディアにも、危機感の見られないのは何故であろうか? 学生達との対話を重ねて来て、彼らの育ってきた教育についても考えてみたい。

 

「我国の食料とエネルギー資源は、どのように確保されているのだろうか?」

国民は政治家を含めて、日常生活の中でこの問題を殆ど気に掛けないで、安穏としているのが実態だ。米国に次ぎ、我国は世界第二位の国内総生産を誇る経済力に物を言わせ、食料と言わずエネルギー資源といわず、衣類やファッショングッズ、映画や音楽なども遍く海外との交易に委ね、何でも手に入れてきた。

「石油? 輸入すればいいじゃないか」と、いとも簡単に答えるが、その先の対応策については自ら考えようとしない。食料自給率40%、エネルギー自給率は原子力発電を国産に計上しても20%に過ぎない現実を、政治家も市民も気に留めていない。経済大国という「うぬぼれ」だけが蔓延していて、我国にはもはや「危機意識」という言葉すら、死語になったのであろうか。

金があっても糧道を断たれ、生活基盤を支えるエネルギー資源を断たれたら、国は存続できない。大東亜戦争勃発の顛末を、再び歴史に学ぶ必要がありそうだ。

 

「欧米や中国が、国家エネルギー戦略の構築に必死なのは、何故だろう?」

中国・印度・アジア諸国を含む発展途上国の、「人口爆発」とも言われる人口急増に加えて、モータリゼーション或いは社会生活の激しい変革によるエネルギー需要の増大には、目を見張るものがある。殊に中国の需要は2030年には、現在の我国需要の2.5倍にも急膨張すると予測されている。世界を視野に化石資源の権益確保に奔走し、原子力発電の積極的な推進策を、中国は国家エネルギー戦略の柱に据えている所以だ。急増する需要に対応した世界の化石燃料の増加は、2030年で現在の1.6倍に達すると見込まれている。

資源大国の米国ですら、エネルギーの海外依存率を低減させるために、原子力発電の推進などエネルギー源の多様化や、核燃サイクル推進への政策転換、更に自動車燃料の多様化など新たな国家エネルギー戦略構想を発表した。

EU諸国に於いても、グリーンピース環境運動の創始者が、原子力発電のもつ有用性を認め、各国が原子力発電に傾斜を深めつつある。エネルギー需要が益々増大する一方で、石油生産がピークを迎える所謂、オイルピークの統計的なデータは、既にピークを迎えた現実を指摘し、楽観的な観測をもってしても2030年代にはピークを迎えると推定されている。また、昨今の原油価格は恒常的に60$/B前後を維持しているのは、オイルピークに加えて、石油精製施設の不足や、投機筋の介入などを含めて、需給バランスの構造的変化を端的に示すものと言えよう。

各国が長期のエネルギー国家戦略を必死で構築しようとしている一方で、無資源国の我国は、若干の備蓄が確保された程度で、数ヶ月の「石油ショックは凌げる」と考えるのは余りにも無防備だ。世界各国が血眼になって模索しているのは、「長期的な危機対応への国家戦略」であり、我国に欠落する最も重要な政策課題だ。我々がこぞって「国家エネルギー戦略会議」の早急な立上げを提言し、原子力発電を措いては「エネルギー自給率を改善する手立て」は無いと主張する所以である。

また一方では、地球温暖化を防ぐ国際的な協議が続けられて久しいが、いまだ効を上げ得ないでいる。産業革命以来、人類のエネルギー消費は急速に増加し、化石燃料の燃焼に伴うCO2排出もこれに比例して急増した。地球温暖化をもたらすCO2を如何に低減するか? 省エネの推進、再生エネルギーの利用拡大と共に、原子力発電の実力を再評価して、各国が国家エネルギー戦略の柱に据える所以である。

 

「長期の国家エネルギー戦略を、誰が支えるか?」 

我々がこぞって提言している「国家エネルギー戦略会議」は、残念ながら未だこれに応えられていないが、経済産業省が「新・国家エネルギー戦略」の検討を開始し、5月の纏めに向けて識者の叡智を結集しようとする努力には、大いに賛意を表したい。願わくば、外務省・環境省・文科省・財務省など行政機関の省庁の枠を超え、地方自治体もこれに応え、一致協力して欲しいものだ。加えて、「国家百年の計」などと大上段に構えるわけではないが、これまでの審議会の例を見るまでもなく、「国民意識とのギャップ」を埋める努力を、組織的に積み重ねて欲しいものだ。

目を外国に転じれば、広大な国土を有しながら、我国と同様に化石エネルギー資源に恵まれないフランスでは、国民の支持を得て電力の80%を原子力で賄っている。フランス国民は、原爆の悲惨さを何処まで正しく理解しているかは判らないが、ウクライナで発生したチェルノブイル原子力発電所の大事故は、我が事として受け止めた筈だ。それにも拘らず、何故に彼らは国家のエネルギー戦略の柱として、原子力発電を支持するか!

一つの明白な「鍵」がある。それは「義務教育における、エネルギー問題の赤裸々な提示」であると、筆者は見る。果たして子供達に、エネルギー問題が正しく理解できるのだろうか? 答えは、YESだった。

我国の義務教育の教科書をひも解けば、原子力の記述は「広島・長崎の原爆」が筆頭に挙げられる。我国最大の歴史的事実を子供達に伝えることに、聊かなりとも異を唱える積りはない。更にチェルノブイル事故・スリーマイル事故なども、事実を教えることは正しい判断であろう。しかしながら、人類が開発した原子力の平和利用について殆ど記述が無いのは、一体如何なる判断にもとづくものであろうか? 我々が豊かな文化生活を営んでいる影で、原子力の平和利用の恩恵は計り知れない。残念ながら我国の義務教育の教科書には、ここの処が大きく欠落している。フランスではどうか? 国民の生活を支えるエネルギーの大切さ、そして国にエネルギー資源が無いこと、国の力を築くための長い歴史的事実に照らして、中東を初めとする外国の石油資源に頼ることが、如何に危険なことであるかを、偏り無く義務教育の教科書に記述し、的確な教育を続けて来た。この結果が、紛れもなく、国民の「原子力発電を支える力」になっている。

 

 「今こそ、エネルギー教育・原子力教育を!」

 世界有数のエネルギー消費国でありながら、我国にはエネルギー資源が殆んど無いこと、そしてエネルギーを如何にして手に入れるか、しかもそれを外国に頼ることが如何に危険なことであるかを、我々は子供達に正しく教える責任があるのではなかろうか。エネルギー資源を断たれた結果、大東亜戦争を勃発させ、挙句の果てには原子爆弾の悲惨な目にあった歴史的事実を、率直に、あからさまに、子供達に訴えねばならぬと確信する。

 フランスに習えと言うのではない。日本の言葉で、日本の感性で、真実を偏り無く伝えれば、子供達は其れを正しく理解し、どの様に処して行かねばならぬかを自ら判断してくれる。我々は子供達の理解力を疑い、躊躇するべきではない。今こそ、正しいエネルギー教育・原子力教育を子供達に与えることが、我々の責務だ。そのことこそが、国民に応え、国家エネルギー戦略を支え得る、唯一の道だと考える。

 

 古語に、「魁より始めよ」との訓えがある。

教育に携わる者とエネルギー関係者は、子供達のエネルギー教育・原子力教育と市民の啓蒙活動に、自ら進んで第一歩を踏み出したいものである。(了)

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6.6 子供たちに何を引き継ぐか(土井 彰)

 

(1)子供たちの姿

私は、(財)エネルギー環境情報センターの教育コーディネーターとして約5年全国の小、中、高校の依頼でエネルギーに関する授業を担当してきた。題目は、『未来に向けて「エネルギー・環境・発展」を考える』としている。事実を正確に探求する理科的な発想よりは社会生活おける種々の状況から何を選択すべきかを考える様な社会科的な発想に重点を置いている。これは未来に向けて自分たちは、今何をすべきか全員で考えることに主眼を置くためである。授業の対象は生徒が主体であるが、先生等の研修会への出講も含め、少ない場合は6名であったが、多いときは700名ということもあり、合計4,300名を超える人々との交流を図った。

 ある学校で、環境保全に向けて生徒が作成した標語に、『お父さん、お母さん僕たちの地球を食べちゃわないで』があり、子供たちはテレビや新聞からの情報で地球や自分たちの将来に対して危機を感じている。生徒の皆さんからの質問で多いのは、

(1)   環境の破壊はどこまで進むか? 自分たちが大人になるころ地球の平均気温はどうなるか? 省エネルギーはどのようになされているか?

(2)   地下資源はどのくらいあるか? エネルギー資源がなくなったらどうなるか?

(3)   外国から資源を高く売りつけられると日本の産業はどうなるか?

(4)   将来どんなエネルギー源が可能か?

(5)   宇宙に太陽以外のエネルギー源はあるか?

などであり、現在から将来にわたりかなり具体的な不安を持っている。

私たち大人は子供たちのこのような標語や質問が出るに至ったことに責任を持つとともに、将来の不安を少しでも取り除く努力をすべきである。われわれはどんな答えを準備できるだろうか。

 

(2)基本的な課題

 人間が生きるためにエネルギーは必要不可欠である。エネルギーは富を生み出し、豊かさを支えている。しかしながら、エネルギーの消費量は、最近の30年で2倍、 50年で約10倍に増加した。これに伴い環境破壊や資源の枯渇の問題が発生してきた。 

地球が誕生してからの45億年間を1年間に短縮したと仮定してみると、現代人が誕生したのは12月31日23時38分、産業革命は12月31日23時59分59秒である。

人類は地球の歴史から見るとほんの一瞬に過ぎない期間に地球環境を破壊し、資源を使用し尽そうとしている。

21世紀の重要課題は、(1)増加し続ける人口を支える経済発展、(2)この経済発展を支える資源と食料の確保、(3)このような条件下での環境の保全である。

世界の人口の20%に過ぎない先進国が全エネルギーの70%を消費し、20億人の人々は電気すらない生活をしている。人口は今後も増加し続け、今世紀中ごろには現在の2倍近い100億人に近づくとの予想もある。環境破壊は加速度的に進行しているが、人類が持続可能な発展をしてゆくには、環境を保全しつつ、限りある環境資源やエネルギーを有効、公平に使用することが必要不可欠である。

『経済の発展』、『資源とエネルギーの消費』および『環境の保全』の三つは三竦(トリレンマ)の関係にあり、この三竦みを解決してゆくことが、人類存亡の危機を克服する最低の条件である。21世紀はその後の人類の生存すらも左右しかねない大きな試練の世紀である。

 

(3)子供たちに引き継ぐために

われわれ大人は子供たちに『多くの人々が心豊かに住むことのできる地球』を引き継ぐ義務があり、それへの準備をしなければならない。

環境をどのように考えるか、例えば、環境を資源とするか、それとも無限の入れ物とするかで立場は変わってくるが、いずれにしても環境対策を妨げているものは社会の貧しさや資金不足だけではなく、制度であり、これに加えて国民の環境意識の低さに便乗している国家の責任でもある。

トリレンマ問題の解決の第一歩は、人類の生存を左右しかねない問題が今発生していることを多くの人が知ることである。その上で、(1)今まで通り環境を破壊しながら経済成長し、生活レベルをさらに向上する、(2)生活レベルを下げてでも環境を守る、(3)環境破壊を少し認めながら、現状の生活レベルを維持する、の三つの中から将来の方向を選ぶことである。いずれを選択をしても、地球環境はすでに再びもとへは戻れない状態にあるが、少しでも長い間人類が生存してゆく方法はある。これには、省エネルギー社会を実現することが必須で、これは子孫に対する現代人の責務である。そのためには、第一に、社会の仕組みを変え、循環型社会を作ること、第二に、人間のライフスタイル、意識を変えることである。先進国責任論、生活レベルの低下、個人や国の利益より地球の利益を優先する制度など非常に難しい概念もはいるが、とにかくこのまま進むと地球の自然とともに人類は滅亡する。各個人は全世界規模で総合的に物事を考え、それに基づき各個人が責任を持って行動することが大切である。(以上)

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6.7 エネルギー問題を学校で教えよう(荒井利治)

 

日本の高校生の『エネルギーと環境』に対する意識がヨーロッパ6ケ国に比べてきわめて低いこと。さらに原子力発電の原理について『ウランの核分裂』という正解率が38%で、トップのスイス90%、5位フランスの60%と大きく離されているなどショッキングな事実が、原子力文化振興財団の調査でわかったのは12年前の平成5年であった。

当時一般的科学知識については、日本の学生は欧米に比べ勝るとも劣らぬと思われていたので、この結果は関係者にはまさに驚きであった。

原因調査の結果、日本の教科書はエネルギーについて殆ど触れていないこと。また教師も原子力を含めたエネルギーについての知識が不十分で、特に放射線・放射能にたいしては原子爆弾のイメージからのアレルギーでほとんどゼロに近いことがわかった

 それから10年余、問題意識を持った教育界や産業界の人々の努力により、文科省の学習指導要領にエネルギーが加えられ、教科書さらに副読本もかなりよいものが相当数出版されてきた。また各地の科学博物館も整備され、子供たちに理科に興味を持たせるイベントや教室が開かれている。

 しかしその後も大学生の理科離れは進行を続け、それにもまして昨今は小・中学生の基礎学力の低下が問題になっている。かって教育水準の高さを誇った日本の昔日の面影は消えようとしている。その原因を考えてみると、一つはこつこつと忍耐強く努力することの軽視がある。大学の文系では学校に出なくても本を読んで単位を取ることは可能だが、理系では演習、実験、実習など実際にやることの積み重ねが必要である。

もう一つは知識詰め込み型の教育の弊害である。大学入試の○×式回答がそれに拍車をかけた。子供の時からテレビづけで受動的習慣に染まり、自分で考える力はつかない。エネルギーは高校では地歴、社会、理科、公民などの科目で取り上げられているが、ばらばらな知識のままでまとまったエネルギーという概念は教えられず、従って大学入試にも出題されなかった。

めまぐるしく変化する社会、急速に進歩する科学技術に対しては十年一日の旧来の教育体制では対応できるはずはない。教育界でもこれに気づいて、各教科の枠を超えて横断的な学習を行う『総合的な学習時間』が設けられ、その学習対象としては、国際理解、情報、環境、エネルギーなどが上げられた。

しかし、エネルギー、環境については、かなりの学校で実行例があるようだが全体として成果が上がっていない。その理由は単純である。教える先生にも、もちろん生徒にも実体験からくる切実さが無いからどうしても本物にならない。

 戦後60年。世界の驚異といわれたわが国の経済成長の蔭で我々が次の世代にしっかり伝えなかったものの大きさに今気づかされる。我々は戦中、戦後の物資不足の体験を通して「物を大切にするー勿体ない」ということを自然に身につけた。また日本が資源小国であることから、石油、石炭などエネルギー資源の確保が国の存立にかかわること(太平洋戦争突入の動機になった)を実感して育った。

 しかし現在の日本はどうか。アメリカの大量生産、大量消費型経済の発展とそれに伴う物質文明謳歌の空気にすっぽり包まれ、我々の次さらに次次世代は電気も水もスイッチや蛇口をひねればいくらでも出てくるし、食べ物や必要品は街のコンビニに行けば24時間いつでも手に入ると信じている。それらの生産者の苦労や、資源の入手先にまで思いをいたすことなく生活しているのが現状である。

我々が後の世代に伝えるべきメッセージは次の3点であると思う。

1)在世界は爆発的な人口増加を背景に、経済の成長、それに欠かせぬエネルギー、その消費に伴う地球規模の環境悪化というリンクした難問に直面している。

2)日本は資源小国で、国外の資源を加工し工業製品として世界に提供するものつくりの国である。世界第二の経済大国でエネルギーの消費量は世界第4位だが、その自給率は5%、原子力を準国産とみなしても15%に満たない。

3)その日本がエネルギー、環境で世界に貢献する道は二つある。第一は技術力で、戦後急速な工業化の過程で体験した公害対策技術と二度のオイルショックを克服した省エネ技術の提供である。第二は日本人の自然観に由来すると思われる『勿体ない』の思想の世界への発信である。

このことをしっかり伝えるにはよほど努力してもかなりの時間が必要である。従って学校と社会両面で早急な教育を展開しなければならない。そのためには経験のある社会人のOBの参加、協力が不可欠だと思う。体験を話し、学生と一緒に考える時間が必要だ。昨今文科相が理科の教育でこのような線で動き出したようで、機を一にした、促進を期待したい。

END

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