月刊エネルギー 2月号 Vol.37 No.2 2004

原子力の健全な発展のために…ペンの惰性,暴カに立ち向かう勇気を

 

原子力安全基盤機構技術顧問 石川迪夫

 

"ペンの暴力"の被害は大きい

 

 「ペンは剣よりも強し」という。とすれば、ペンの暴力は,剣やピストルを持つ暴力団のそれより強いのであるから、暴力団が社会的監視されている以上に、ペンはチェックされる必要があるのではないだろうか。ペンという事柄の性質上、その規制は内なる自主的なものに委ねるしかないが、日本のマスコミの現状を見るに、残念ながらその理想とは程遠い。それは特に原子力報道に関して顕著である。

 一体に言って、暴力は振るっている側にはそれほどの意識がなくても、振るわれている側にはたまらなく苛酷なものである。ペンの暴力も同じで、書く方は案外気づいていないが書かれた側の被害は甚大である。その実例が歴史にある。

 ヒットラーはペンが剣よりも強いことを熟知していたらしい。彼の語録に、"百人が百人同じことを口にすれば、嘘も真実となる"がある。マスコミの本質を見抜いた至言だが、ヒットラーの恐ろしさは、この発見を逆手にとってマスコミを徹底的に利用したところにある。この結果、ドイツは短期間にナチ一色に染め上げられ、民族をあげての第二次大戦に突入する。そればかりではない。

 ヒットラーは嘘を交えた情報操作によって、己の欲する方向に国民意識を誘導できることも知っていた。その具体例が,ユダヤ人に対する飽くことのない誹諺宣伝である。最初は些細な非難に始まり、それが批判、誹諦へとエクカレートして行った時、ドイツ社会のユダヤ人嫌いの感情は、確固とした迫害への信念に変質していた。それがアウシュビッツの悲劇につながる。ドイツのジャーナリストにしてみれば、ユダヤ人批判は戦時における愛国心の表れ、当然のこととして、言われるままに書いたのだろう。だがそれは批判を忘れた、ペンの惰性だった。ペンの惰性は暴力につながるのである。

 

原子力を見る目に変化の兆しが・・・

 

 アウシュビッツほどではないが、過去の原子力報道がこれに似ている。チェルノブイリ事故以降の90年代は、反原発が世界的な風潮だった。反原発記事さえ書いておれば新聞は売れた。一世を風靡した"ひろせたかし現象"は、新聞記事を切り抜いて聴衆に示すことで成立していた。その結果、原子力に対する嫌悪感が社会に広がり、原発の建設は止まり、停電がやってきた。惰性のペンを無批判に信じた結果が停電だった。停電に見舞われた国では、原子力を見る目に、いま変化が起きている。

 米国の世論は今や原子力推進である。カリフォルニア、ニューヨークの停電騒ぎが、米国の世論を変えた。ヨーロッパが風力発電一辺倒と思っている人は時代遅れ、死者1万5000人を出した昨夏の熱波来襲、それに伴う電力不足が欧米の世論を変えている。誰しも背に腹は変えられないのである。まして、それが地球環境に影響を及ぼさない優れた技術とあってはなおさらである。原子力の良さが再認識され始めている。原発を持たないイタリアで原発建設が真剣に取りざたされ、フィンランドでは原発の新規着工が決まった。ヨーロッパで猛威を振るった緑の党は、いま真っ青という。いま世界では、マスコミの原子力論調に変化が兆し始めている。敗戦がユダヤ人批判をなくしたように、停電が惰性のペンに活を入れたのである。

 

過去の原子力報道は"反原発記事なら書く、だが訂正はしない"

 

 この6年ほどマスコミOBの方々とともに、「原子力報道を考える会」でこもごも検討してきたなかから、この当たりの実情について事例を拾ってみよう。考える会を始めたころは、原子力報道といえば、不安感を煽る非常識なものが多かった。氾濫していたといってよい。その指摘にわれわれは大忙しだった。会報第一報を見ると、指摘第一号がNHKである。教育テレビが「チェルノブイリ事故、隠された真実」と称して、震度4の直下型地震が事故の引き金だったという、デンマーク製の珍説を放映した。震度4といえば日本でしょっちゅう経験する、たかが揺れだけの地震ではないか。掘っ建て小屋ですら倒れない地震である。いかにお粗末な旧ソ連製とはいえ、頑丈な原発がその程度の揺れで壊れるであろうか。地震体験者ならすぐ分かることである。それも、壁一重で隣接している3号炉には何事も起こらず、事故は4号炉にのみ起きているのである。この内容がおかしいと判断するのが常識だろう。地震と事故との間をつなぐ技術的な説明もない。そんな珍説にNHKは飛び付いた。それも論説委員付きで45分にもわたって放映した。

 そもそもデンマークには原発がない。したがって,原子力事故を論じる技術的能力も当然低い。こんなことはちょっと調べれば分かることである。マスコミは口を開けば、原子力技術者は、おごり高ぶり不注意で安全の基本に欠けるなどと、他人の批判には容赦がないが、自分たちだってずいぶんと不注意で傲慢極まるのである。周到な注意を怠らないこと、これを安全文化というが、互いにその実践励行が肝要だろう。

 今ひとつ例を挙げる。同じ第一報に書いた、動燃(現在の核燃料サイクル開発機構)東海事業所の再処理施設で起きた火災爆発事故である。「37人の作業者被ばく」の見出しで各社大扱いとなったものだが、日本放射線影響学会の有志による、「被ばくによる健康影響はない」との見解発表には、ほとんどのマスコミが反応しなかった。反原発記事なら書く、だが訂正はしない。事実を曲げて世におもねることを曲学阿世というが、この記事はその見本のような事例である。だがマスコミとなるとそれが当たり前、平然としてテンとして恥じない。それどころか取材に出向いた記者は、東海村職員から「心配だ」という言葉を執拗に引き出そうとした。一種の"やらせ"である。このような非常識な取材や発表が大手を振って罷り通っていたのが、つい数年ほど前のことである。日本の世論が,実体のない感情的な原発嫌いに傾いているのも宜なるかなで、ペンの暴力の影響は甚大なのである。

 

東京電力の不祥事を機に新聞各社の論調に"差"が出始める

 

 われわれ"考える会"の指摘は、各方面から賛同激励をいただいた。マスコミのなかにも指摘に耳を傾けてくれる声が聞こえてくるようになった。このところ、上述のような非常識報道が大分減ってきているのは、喜ぶべきことである。

 マスコミに表れた今ひとつの変化は、各社の論調に差が生じ始めたことである。以前はどの新聞を読んでも同じような批判記事一色だった。それに変化が生じたのは、私の知る限り、99年6月福井県がMOX燃料の使用を認めた時が最初である。朝日、毎日が安全論議置き去りと知事を批判したのに対し、読売、日経、産経が核燃料サイクルの意義や将来を書いた。ともにトップ記事である。中央各紙の一面で賛否が分かれたのである。これ以降、各社の論調に少しずつ、違いが見られるようになった。中央紙に差が生じれば、地方紙も反応する。このところ地方紙にも変化が見られる。

 たとえば、昨年、北海道電力泊発電所の再生熱交換機漏洩事故についての北海道新聞の報道は、失礼ながら、これが道新の記事かとわが目を疑うものだった。道新といえば、これまでおおよそ反原発、事実報道よりも批判一転張りといっても差し支えなかった。それが今回の事故では事実報道が主体である。このように原子力報道は日本でも変化している。この変化は特に、東電の不祥事に伴う首都圏停電の心.配を機に加速している。

 

とはいえ、記者の勉強不足からいまだに登場する"鵜呑み記事"

 

 だが、いまだに旧態依然たる原発たたきは後を絶たない。その好例が昨年10月27日、共同通信の配信で福井新聞、中部日本新聞が流した、「大飯3号原発で大規模な放射能漏れ事故が起これば、その被害総額は460兆円、急性障害や癌による死亡者40万人」という記事である。京都産業大学の朴講師の研究発表「原発事故の被害額試算」を基にしたものである。福井県と大飯町は朴講師と京都産業大学に、また関西電力は共同通信に対して、根拠があいまいで住民不安を煽るものと、それぞれ抗議した。当然のことだろう。

 朴講師の研究内容は、京都大学原子炉実験所の故瀬尾助手が開発したSEOコードによる計算結果である。SEOコード自体は、放射能が漏れだした場合に風向や風速を考慮して放射能の広がりや影響を計算し、被害額を算出したもので、特段目新しいものではない。だが計算だから適正な条件をインプットすれば適正な答えを出すし、むちゃくちゃな条件を入力すれば、むちゃくちゃな答えが出る。

 朴講師の計算は、論文を読む限り、ラスムッセン教授が初めて確率論を用いて原発の安全性を計算した時に使用した、事故時の放射能データに基づくものである。30年も前の、古いカビの生えたようなデータで、それも杞憂といえるほど発生確率の低い事故想定におけるものだ。ところで、この確率論による安全性研究は、その後に発生したTMI事故、チェルノブイリ事故に刺激されて研鑽が重ねられ、飛躍的に進歩している。計算に使用されるデータも改められ、格段に精度の高いものとなった。ラスムッセンの使用したデータは書き換えられ、おおよそ10分の1くらいに小さくなっている。こんなことは、原子力安全を議論する者の基本常識である。

 朴論文の持つ奇妙さは、確率論は信用できないとうラスムッセン報告を批判しながら、カビの生えた放射能データだけはそのまま引用している点である。ずいぶんと身勝手だが、データがほかにないというのなら分かる。だが、精度高い改善データは公表されているのである。困ったことに、朴氏はこの改善データが公表されている論文を、研究論文の中で批判しているから、知らないとは言えないのである。わざわざ古いデータを使って学会発表というのも不思議な話で、江戸時代の寿命データを用いて現代の生命保険料を算出するのに似たもので、実用にはほど遠い。

 ところが、朴氏は福井県の抗議に対して、県民感情に配慮しなかった点は詫びたものの、研究は学会でも発表したものと文書で答えたという。何をか言わんやである。学者の研究発表は自由だが,そこには自ら律すべきルール、モラルがある。朴氏のいう学会とはこの種の研究が最も学問的に論議できる原子力学会ではない。昨年9月、東大で開催された「環境経済政策学会」に朴氏の発表が見られるが、この場でも計算根拠のあいまいさに疑問が提出され、明確に答えがなかったことから、座長から環境計算を行う場合はその根拠の正確さが必要ですよ、との注意があったと聞く。

 本題に戻り、このようなニュースソースに関わる真贋(しんがん)の調査は、本来マスコミの最も得意とするところ、いや行わなければならない事項だろう。共同通信はこれを省略している。誰であろうとも、原子力安全に少しでも関わった人に照会すれば、論文の持つおかしさを直ちに指摘してくれたであろう。460兆円、40万人という異常な結果に興奮して、鵜呑みにした記事を書いた記者の不勉強もさることながら、調査もせずに配信したデスクの怠慢は問題にされても仕方あるまい。

 

無責任なマスコミの体質

 

 ところで、このSEOコードによる世間騒がせは、これが最初ではない。3度目なのである。最初に出たのは、平成10年、北海道新聞の「大間原発に事故が発生すれば、函館市民の急性死亡者数4800人、5年後には生存者ゼロ」という記事である。中村政雄氏が電気新聞に、「原爆が落ちた広島でさえ大勢の生存者がいる。5年後ゼロとは何事か」と書いておられるが、この常識が原子力記者にはない。2度目は、平成13年、サンデー毎日に4回連続で掲載されだ原発震災"、ルポライターの署名入り記事である。「東海地震が浜岡付近で起これば、漏れだした放射能によって2000万人余の人が死亡する」という、これまた恐ろしく非現実な内容のものである。事実と膨大なデータに裏打ちされたシミュレーション、ノンフィクションと大見栄を切っているが、その根拠を問い正せば脈絡のない作り話であることはすぐばれる代物である。史上最悪の事故チェルノブイリですら、死亡者は31人に止まった。比較しなくても常識があれば分かるというものである。

 共同通信の配信記事は、この3番煎じなのである。「エネルギー問題に発言する会」のホームページに,「SEOコードでチェルノブイリ事故の災害をシミュレーション計算した上で発表せよ」との指摘が出ているが、鋭い。問題はこのような3番煎じを、相も変わらず大扱いの記事として採り上げるマスコミの体質である。まずは不勉強なのである。第2に原子力反対の記事であれば何でもよい、理屈もへったくれもいらないという、無責任極まる報道気分がまだ残っているのである。その好例が東電事件に関わる、原子力発電所の運転再稼働を巡っての記事に散見される。1,2の事例を紹介しよう。

 

論理的におかしい社説や論旨がくるくる変わる社説も

 

 一つは昨年2月12日付の毎日新聞の社説「原発再稼働、不信ぬぐう説明尽くせ」がそれ。内容を略記すると、今回の原発停止の発端となったシュラウドのひび、その後に発見された冷却水配管のひび問題に関し、東電が補修のうえ運転再開を決めたことに対して、社説は「維持基準による安全評価からは補修の必要はない」と認めながら、「傷を残しての運転で安全を地元に理解して貰うのは難しい」と難癖をつけ、最後に「運転再開は地元が納得すればよいというものではなく、国民の納得が必要」という、なんとも釈然としないものである。

 この社説は論理的におかしい。安全評価上、必要でない補修をなぜ地元の理解のために実施する必要があるのか教えて欲しい。補修費は回り回って消費者の負担となる。科学技術的に補修の必要がないのなら、それを地元の人たちに分かりやすく説明し、不信をぬぐうのがマスコミの使命だろう。さらに,「運転再開は地元が納得すればよいというものではない」に至っては、一体全体なにごとか。選挙によって国民の支持を得た政府が安全と認めているのである。それを無視している。このような筋の通らない理屈、難癖が中央紙の社説として堂々と罷り通るのだから恐れ入る。"オー兄さん、俺がウンと言っても、背中の彫り物が承知しねえのよ"というのに似た理屈である。原発嫌いが先に立ち、一刻でも再稼働を遅らせたいとの無理が、こんな社説を生む。

 これが地方新聞になるとなおさらである。知事の意向に重点を置いて書くから、政治情勢いかんで社説の論旨がくるくる変わる。一回一回の記事だけでは分からないが、並べて読むと社説が実にいい加減な作文かがよく分かる。理屈と膏薬はどこへでも付くというが、全くその通りで、読んでいておかしい。滑稽なのである。だが、笑ってばかりではいられない。地元への影響は甚大なのである。そんな例を福島民友から採らせてもらおう。

 電力危機からまだほど遠い春、「運転開始ができないのは、福島県がかたくなに理解しないせい」との声が聞こえるが、県民が責を負う筋合いなどない」と、5月11日、民友の社説は正論を述べる。ところが、地元8町村が知事に対して運転再開を要請すると、「いま原発は安全確保の作業中、それとも原発は頼むとうごくものか」(5月24日、編集手帳)と意気軒昂、県民の要請にもどえらい啖呵である。

 ところが6月が終わりに近づき、東京大停電の心配が現実味を帯び、国民のなかから不安の声が出始めると、途端に論調姿勢が変わる。びびり出したのである。「知事も再開を認める以外に選択肢はない」(6月25日)と軟化し、梅雨明けも近い7月に入ると、「知事自身に運転再開を否認する権限があるわけでなく、東電が安全を確かめて運転するのに何の遠慮もいらない」(7月4日)と、5月の意気込みは何処へやら、無条件降伏である。ならば最初からそう書けばよいのである。だが、本音は悔しい。7月11日の「知事が運転再開したのは民意にある」に至っては書かずもがな、運転再開が安全問題ではなかったことを自分で認める結果となったばかりか、編集手帳で吐いた啖呵がわが身に跳ね返ってしまった。

 

原子力事業者が結束して行動するとき

 

 このようなマスコミの震え、豹変ぶりは、実は各社にあった。これは行き過ぎた報道に対する責任逃れだったのである。停電が現実味を帯びてきた時、その被害影響の大きさに気づいたマスコミは、皆慄然然とした。原発嫌いのマンネリ論調を繰り返すことで、再稼働を遅らせてきた報道の責任を,国民から指弾されるのを恐れた。NHKニュースが停電問題を伝えるとき、「一連のデータ隠しで全原発が停まっている」との長い長い枕詞を東京電力の前に必ず置いたのがその好例である。枕詞を繰り返すことで、停電の責任はわれわれにはありませんよ、とおまじないの洗脳をしていたのである。予防キャンペーンを張ったのである。

 「今回はやりすぎた」、「これまでの原子力認識が誤っていた」と反省を口にするジャーナリストが出始めている。この反省が今後の原子力報道の変化の出発点と私は見ている。この10年、世界的風潮と安心して気楽に書いてきた反原発報道が、国民に漠とした不安感を着実に根着かせた。その不安感が有事の際、大きな社会的障害となって作用することを東電問題を機に認識したマスコミが多いのである。だが,不安感は長年にわたる報道の所産で、急速に払拭できるものではない。大いなるジレンマだが、今回の原子力報道の変化は、惰性のペンがもたらす罪業に気づいたところに根ざしている。これは本文冒頭に書いた内なる判断の変化である。形ではなく、質の変化である。この変化を私は大きいと見る。書く記事に対する自主的な品質(信頼性)管理の動きが、マスコミのなかに兆し始めたのである。これこそ、これまでの原子力報道に欠けていた最も重要な部分であった。ペンの暴力を阻止する自主的な規制が育つ芽なのである。

 時を同じくして、原子力界にも変化が胎動している。事業者や地方自治体がマスコミ報道に対してクレームを付けたのがその表れである。わが国原子力開発の草分けに汗を流したOB技術者たちが、「エネルギー問題に発言する会」を結成して、マスコミ報道に対して活発に発言をしている。同じような活動が、若手の原子力技術者、女性グループの間にも広がっている。

 いま、大切なことは、このような変化を糾合して、さらに変化を加速させることであろう。そのためには、これまであまりにも黙んまりを決め込んできた原子力事業者が結束して積極的に発言し、行動することが必要である。原子力界のリーダーが、ペンの暴力や惰性に立ち向かう勇気を持ったとき、原子力の将来が開けるであろう。失われた10年を取り返し、世界の動きに互していくにはこれしかない。