電気新聞(時評)_牛丼 2004年2月6日
原子力安全基盤機構技術顧問 石川迪夫
牛丼が姿を消すと言う。吉野家だけで1日80万食と言うから、社会的影響は凄まじいだろう。貧乏サラリーマン、学生には痛い。一頭の狂牛病の発見で米国牛肉の輸入が禁止されたためだ。農水省は輸入再開条件として肉牛の金頭検査を要求しているが、米国は安全上そこまでの必要はないと言い、問題解決は長引きそうな雲行きだ。
米国牛が悪けりゃ豪州牛でと我々庶民は思うのだが、吉野家の阿部社長は「本来の味が出ない」と、味という論理的解決が不可能な理由を盾に、目玉商品の販売中断に踏み切った。よほどの決心に違いない。阿部社長によれは、牛丼に使うバラ肉は若年牛が主体で、かつ狂牛病の危険のない部位に限り、肉の解体から輸送保管に至るまで一貫した品質管理を行い、安全には自信があるという。確かに、この様な安全確保システムは一朝一夕には作れまい。
片や農水省は、多寡をくくっていた狂牛病が日本に発生し、大慌てしたのが3年前。不安解消のため国産肉の在庫を全量買上げ焼却処分にした。総額3000億円とも噂される。買上げ価格も良かったのだろう、外国肉を偽って売り付けた日本ハム事件のおまけまで付いた。この無駄使いの罪滅ぼしが全頭検査だ。面子上からも簡単には譲れまい。
阿部社長は今回の政府の措置を、安全と安心を混同していると批判する。安全は科学だから明確に基準を設け運用管理できるが、安心は消費者一人一人の心理問題、基準の設けようがないと。どうやらこの問題の構図、食の安心が安全と対侍した格好で、今日の原子力問題と相似共通している。
狂牛病原体の基となるプリオンは、目、脳髄、脊髄と言った部位以外には存在しないと言う。だから、これらの危険部位を除去すれば病気が人間に移る心配はない。また2歳以下の若牛に狂牛病の発症例はない。これが世界共通の安全認識らしい。確かに米国人は、全頭検査なしで平気で牛肉を今日も食べている。その消費量は年間3500万頭、日本の125万頭に比べて桁違いの多さだ。日本人の安心のために、多額の費用を費やし全頭検査を実施する理由は米国にはない。
折しも、鯉ヘルペス、鶏インフルエンザと、食べても危険のない肉」の大量処分が続いている。鯉や鶏肉に不安を感じている人は多い。借問するが、この不安解消のために鯉や鶏の全頭検査を、政府は命じるのだろうか。恐らくそれは経済的に不可能だろう。鶏インフルエンザは広くアジア全域を覆い、感染による死者も出ている。日本政府は、何故危険地域を、山口県の発病地30キロ圏内に限るのだろうか。翻って狂牛病に対し発症地ワシントン州に絞らず、広く米国全体の牛を対象とするのだろうか。政府の対策に一貫性がない。それは対策が、安全対策にあるのではなく、安心対策であるからだ。
話は変わるが、原子力で今流行の安全文化の目的は、ひとつに事業者の安全意欲の向上にあるが、今ひとつに規制者の適切な介入要求にある。適切な介入とは、役人の責任逃れとなる規制のための規制を廃し、国民に過剰な負担をかけぬ規制を行うことを指す。過剰な規制、根拠薄弱な規制は国民の負担となり、廻り廻って安全の無視に繋がるからだ。
ふぐは喰いたし命は惜しし、昔から食の安全と不安は社会問題だ。だが今は多くの人が平気でふぐを喰う。毒のある部位を取り除けば安全と知っているからだ。不安感の解消は、安全基準の確立とその実践のみが一筋道、検査とはその確認のための手段にしか過ぎない。全頭検査の要求は、国民に負担を強いるだけになりはせぬか。