安全目標について国会で論議を

元東芝首席技監  工学博士  益田恭尚

Takahisa MASUDA

「エネルギー問題に発言する会」会員

 

1.              はじめに

最近、BSE(牛海綿状腦症)、SARS(重症性呼吸器症候群)、鯉ヘルペス、鶏の鳥インフルエンザ、医療ミス、HIV(エイズウイルス)に感染した献血の輸血による感染、老人自殺の増加、凶悪犯罪の増加、爆発事故、テロの脅威、イラクへの自衛隊の派遣問題、東海地震の可能性など国民の生命に関する懸念すべき問題、またはその恐れが問題化し、マスコミを賑かし、国民の不安が増大している。これらは一般にリスクと呼ばれている。リスクは危険(danger)とは多少違った意味を持ち絶対的なものではなく度合いであり、一般に危険の発生の頻度とその影響の積で表される。しかし、単に発生確率、死亡率などで定量化する場合が多い。

リスクには、この他にも、交通事故、喫煙の害、亜硫酸ガス、窒素酸化物、浮遊粒子状物質、ダイオキシン等の排気ガス、食品添加物、遺伝子組み換え食品などによる健康被害の恐れ、癌による死亡、肥満による寿命低下等があり、長期的に見れば二酸化炭素による地球温暖化、石油危機、景気後退による失業問題なども深刻なリスクである。

近代社会においては好むと好まざるとにかかわらず、これらリスクが常に存在しており、個人及び関係者はこの低減に向けて懸命の努力を続け、文明の向上、食料事情改善、衛生・医療の向上などと相俟って、人生50年と言われた日本人の平均寿命も今や81.9歳という世界最高水準を維持するまでになっている。

一方、原子力発電所、化学工場、ごみ処理場などが立地地点の住民から迷惑施設とみられ、それによるリスクが大きな社会問題として議論されている。昨年、原子力安全委員会から原子力発電所の安全目標を定めようとの提案がなされた。この機会に原子力発電所の安全目標を含め、今後益々増大するであろう、われわれを取巻くリスクについてどうすればよいか、皆さんで考えて頂きたいと考える。

2.              リスクの種類

リスクについて筆者なりに整理してみると

@毎年ほぼ同じ割合で死者がでているリスク

例えばわが国の交通事故による死者は数年前迄は1万人/年に上っている。しかし、関係機関による、酔っ払い運転を始めとする交通違反の取締まり強化等の効果が上がり、年々減少を続け、昨年は8000人以下に押さえ込むことができたと発表されている。しかし、これは決して軽視できない数である。運転中の携帯電話の使用禁止の法制化などの対策が検討されており、さらなる低減を期待したい。

癌について考えると近年、約30万人/年近くが癌により死亡している。高齢になるに従い癌に掛かりやすくなる傾向があるため、長寿国日本としては大きな問題となってきている。医学の進歩により治療法が格段の進歩を遂げ、癌即死という状況ではなくなりつつあることは喜ばしいことである。しかし、国民に対し早期発見のために何をすべきかと云うことが徹底されているとは言えず、早期発見・早期治療をさらに徹底すれば癌による死亡率を更に低くすることができるのではないだろうか。

この外、毎年ほぼ一定レベルの死者をだしているものに交通事故以外にも、2万人/年程度の事故死、1万人/年におよぶ自殺があり、誰の目にも大きなリスクと感じられている。個人的にはそれぞれ何らかの努力をしているものの、十分と云える状況にはない。

Aリスクがあることは明らかだがその程度が十分認識されていないもの

煙草の害は直ちに死亡に繋がらず、煙草の吸い過ぎで死亡したと特定されないので、健康に悪いということは理解しても、どれだけのリスクがあるのか素人には分かりにくい。それでも喫煙を制限する施策等が漸次増加して、喫煙者は益々住み難くなって来ていることは、煙草を嗜まない者にとっては朗報である。

害よりもメリットありとの個人の選択で喫煙を続けている人は良いとして、若年女性の喫煙、児童喫煙などは見逃すことができない大きな問題である。

同種のものとして亜硫酸ガスや窒素酸化物、浮遊粒子状物質、ダイオキシン等の排気ガス、食品添加物の害などがあり、関係省庁で規制の努力をしているものの、果たして十分かどうか疑問である。

B分かりにくいリスク

もう一つの分野はBSEのリスクといった一般人に非常に分かりにくいリスクである。個人が牛の肉を食べた場合、BSEに罹るリスクがどの程度あるのか殆ど分からないといった方が正しく、庶民感情としては牛がよろよろと倒れて行く映像が脳裏を離れず、ただ単純に心配し自己防衛するだけである。

わが国においては国民感情に重きを置き、全頭検査の実施に踏み切ったが、それはそれで一つの英断であった。しかし、輸入品について受け入れ条件を明確に示さないまま輸入を続けていたのであろう。米国でBSEが発生するや、輸入の一次禁止の処置を採ったのは当然としても、国内対策との横並びで全頭検査を主張せざるを得ない状況になっている。国民が一応政府の管理基準を信用し(?)、牛肉に対し大きな恐怖心を持たないで毎年3,500万頭の牛を食用に供している国に、経費が1000億円も掛かる(大した金額ではないという見方もあろうが)と云われるわが国の基準を押し付けようとしても解決は難しく、非関税障壁の過剰適用として国際問題を激化させることになるのではないだろうか。

120日付け毎日新聞によれば吉野家の安部修仁社長は毎日新聞のインタビューに答え「・・・食品の「安全」について正しい認識を持つことが大事だ。問題になっているのは、食べ物の安全性であって、「安心」とは違う。「全頭検査」は「安心」な言葉だが、それだけが安全を確保する手段ではない。本当の意味で安全確認をどうするかに照準を合わせて議論すべきだ・・・」と述べられたとあるが、当然の言い分であろう。

C伝染病のリスク

SARSのような伝染病、輸血によるエイズなどの感染はまた違った意味を持っている。庶民の感情としては、これらは絶対起こさせてはならないものであろう。国としても一度流行するようなことになれば、そのリスクは急増することから考えても、全力を挙げて水際で防がなければならない。しかし、介在者が人間であるだけに完全排除は極めて困難であると考えられる。相当高い確率で罹患者がでることを想定し、被害を最低限に抑えるための危機管理体制の確立と徹底が望まれるところである。

上記BとCの中間に位置するもいのに鳥インフルエンザ、鯉ヘルペスなどが挙げられよう。それ自身の感染拡大による被害の他、ウイルスが変化し人間に感染する可能性が恐れられている。初期発生は相当以前にあったものと推定されるが、生産者は通報することで直接被害を受けるという点から考えて、飴と鞭の政策により、国際的にも早期に通報するシステム作りが最も大切であろう。

Dリスクについての見方が明確でないリスク

食品の放射線照射による健康被害の恐れのように、管理を徹底すれば全く問題がないと考えられるリスクに対する規制は果たして科学的といえるのだろうか。特に、世界的にも利用実績が積み重ねられ、わが国でも馬鈴薯の発芽防止に利用されている放射線による殺菌が禁止されているのは科学的とは云えないと考える。加工鶏肉の輸入に当って放射線殺菌を施し輸入する方がはるかに安全ではないかと考えるが如何なものだろうか。

遺伝子組み換え食品についても似たようなことが云えるのではないだろうか。欧米では研究の成果として新種の導入が盛んに進められている。遺伝子組み換え食品の導入を頭から否定し続けるのではなく、更なる研究を進めることが必要であると考える。食料の60%以上を輸入に頼っているわが国として、世界的に食料の不足が心配されている中で、かたくなな態度を取り続けることは、わが国の食料問題を益々困難なものとして行くものではないかと思うのは杞憂であろうか。

E不確定なリスク

二酸化炭素による地球温暖化問題、フレオンガスによるオゾン層低減、政情不安からの石油危機、治安問題、テロ対策等もリスクとして大きな課題である。特に、わが国においては地震のリスクは忘れてはならない最大のリスクであると云えるであろう。

3.              原子力発電のリスク

@原子力安全の考え方

原子力発電のリスクについて考えてみよう。原子炉はエネルギーの発生源に核反応を利用しているために、放射性物質の拡散を伴う事故が発生する可能性が常に存在する。人類は知恵の力によって、核分裂反応を上手にコントロールし、さらに核分裂反応の結果生成した放射性物質を人間の住む環境に放出させない工夫をすることによって、放射線障害によるリスクを極小にする努力を原子力発電開発の当初から続けてきた。

原子力発電所は多重防護と多重障壁によって安全を確保するという基本思想の基、放射線・放射性物質放出事故が起こらないよう、国の作った基準に従い設計・製作・建設され、国によって認められた事業者によって、国が認めた保安規定に基づいて運転・管理されている。

わが国においては既に40年に近い運転実績を有するが、原子力発電所での放射線障害による死者は発生していない[@]

A通常運転中のリスク

安全設計の目標の一つとして、通常運転時の周辺公衆の受ける線量をできるだけ低く抑えようとの考え(ALARA)に基づいて原子力発電所を設計し、運転・管理することが国の指針として義務付けられている。

このALARAの考え方の根拠は、原子力安全の立場から、米国の原子力安全委員会が提言した、「合理的に低減できる限り低くしよう」という国際的な考え方で、線量目標値は自然放射線量の約5%(実効線量で年間0.05ミリシーベルト)と決められている。[A]

これを決めた根拠としては直線仮定により集団線量を低く抑えようと云うものである。この直線仮定とは、高線量の被ばくに関しては、放射線障害について因果関係が明確にされているが、低線量の被ばくに関しては明確な障害が見られない(少なくとも250ミリシーベルト以下では臨床症例がないとされている)にも係わらず、高線量の被ばくに見られる障害の発生頻度が、低線量でも直線的に減少すると仮定するというもので、どんな低レベルの被ばくも害があるという厳しい仮定である。

わが国の原子力発電所は実運転において、放出放射能、周辺の放射線は上記基準を満足するのは勿論、サイト住民の心情を慮り、通常は検出限界以下に抑えられている。また、時たまマスコミを賑す原子力発電所のトラブル発生時も殆どの場合放射能の放出はない。このようなわけで、通常運転をしている限り放射線障害によるリスクはないし、設計で考慮している事故の範囲では周辺住民に放射線障害による影響を与えることはないと云える。

B過酷事故

米国のTMI発電所の事故、旧ソ連のチェルノブイリ事故の経験を踏まえ、設計で想定した事象を大幅に超えて、炉心の重大な損傷に至るような事象(シビアアクシデント)のリスクを評価することが必要であるとの認識が生まれ、確率論的安全評価(PSA)手法を用いて評価をすることが求められた。この結果、わが国の原子力発電所で過酷事故(シビアアクシデント)が起こる確率は10-6/炉年より十分低いことが確認され、原子力安全委員会においても認証された。この手法は事故の起因となる事象の発生確率に対し、関係する機器の損傷により発生する事象を分析し、関係する原子炉安全のためのバックアップシステムが機能する場合と、十分機能しない場合の故障確率を順次掛け合わせることによってシビアアクシデントの発生確率を予測しようと言う手法である。

評価結果について分かりやすい表現で示せば「配管破断などによる冷却材喪失事故が発生したとしても99.9999%の確かさで炉心の損傷を防ぐことができる(通称事故発生確率10-6/炉年と云う)。さらに緊急炉心冷却系の効果が期待できないような事態が発生するとシビアアクシデントへ進展することが想定されるが、その場合でも格納容器からの大量の放射性物質の放出を99.99999%の確かさで防ぐことができ(アクシデントマネージメントにより、大量の放射性物質の放出の確率をその1/1010-7/炉年以下に抑える)、その結果、周辺住民の放射線被ばくを1シーベルト以下に抑えることができる」という意味である。原子力発電所の事故発生に関する確率論的表示は種々の仮定のもとに実施する解析的・相対的な表示であり、実証することは困難である。これは交通事故による死亡率等、統計的に集計できるものとは大いに違う点であることに注意する必要がある。

個人被ばく1シーベルトという点について考えてみると、このレベルの被ばくでは人体に確定的放射線影響を与えることはない。また、将来致死的癌になる確率的な影響があるということにはならに。即ち、被ばくしないで癌になる確率に比べ有意な差はないと云える。

C原子力安全委員会の安全目標制定の提案

国としては上記のような法規・指針により原子力発電所の安全を規制・管理してきたが、原子力安全委員会は原子力安全規制活動によって達成し得るリスクの抑制水準として、確率論的なリスクの考え方を用いて示す“安全目標”を定め、安全規制活動等に関する判断に活用することが、一層効果的な安全確保活動を可能にすると判断し、平成129月から安全目標専門部会を設置し検討を進め、“安全目標”(案)を作成し、広く国民の意見を聞くこととなり、平成159月その中間報告が発表された。

中間報告を要約してみると「電気事業者に対してどの程度発生確率が低い危険性まで管理を求めるかという、危険抑制の程度を定量的に明らかにしようというものである。これにより指針や基準の策定をも効果的に行うことができる。この“安全目標”は事故時の経済的影響の抑制水準も決めることが望ましいが、公衆の個人に対する健康影響に関連したリスクを指標とした」とある。

そして安全目標案として定性的目標案と定量的目標案を示している。前者は「原子力利用活動に伴って放射線の放射や放射性物質の放散により公衆の健康被害が発生する可能性は、公衆の日常生活に伴う健康リスクを有意には増加させない水準に抑制されるべきである」とあり、後者は「原子力施設の事故に起因する放射線被ばくによる、施設の敷地境界付近の公衆の個人の平均急性死亡リスクは、年あたり百万分の1程度を超えないように抑制されるべきである」・「原子力施設の事故に起因する放射線被ばくによって生じ得る癌による、施設からある範囲の距離にある公衆の個人の平均死亡リスクは、年あたり百万分の1程度を超えないように抑制されるべきである」とある。

このような安全目標を策定することにより「原子力に対する規制活動に透明性を与え、横断的に評価することを可能とすると評価している。さらにこれにより、国と国民の意見交換をより効率的かつ効果的に行うことを可能とする」とある。

D定量的目標案についての疑問と意見

このような考え方を導入し、リスクの考え方を国民と馴染みやすいものとし、原子力安全について国民との対話を進めることができるようにしようという考え方には賛成である。しかし、この“安全目標”()にはまだまだ分かりにくい点が多い。一般国民にどのようにしたら分かりやすく説明できるか、どのようにして合意を得るか十分に検討する必要があると考える。

上記目標案について筆者は2,3の点で疑問がある。

補足説明の「図-1安全目標案の位置のイメージ」について考えると、これは癌や交通事故の死亡率と同一図上で比較したものである。身近なリスクと比較し分かりやすくしようという考えは一つの手法としては評価できる。しかし、身近なリスクは年あたりの統計データーに基づく個人死亡率が示されており、日本の総人口を掛ければ1年間の死亡者数が出る値である。原子力発電所の安全目標はそのようなものではない。従って、全く違う意味のものを同じ表で比較していることになる。

上記定量的目標案にある“年あたり”の表現は毎年事故が起こるような錯覚を与え、これらの点から誤解を招く恐れがある。また安全目標を基に規制するに当って、母集団として敷地境界で考えるのか、或いはどれだけ離れた地域までを考え、原子炉1基あたり或いは1サイトあたりで考えるのか、特に癌発生がシビアアクシデントの発生何年後に発症し死に至ると想定するのか、はっきり定義する必要があろう。この辺も他のリスクとは大きく違う点である。

上記Bで述べたように、また、TMI事故更にはチェルノブイリ事故の例からみても、特に軽水炉の場合、事故に起因し放射線被ばくにより公衆の個人に急性死亡がでるとは考えにくい。

後者の癌による個人の平均死亡リスクについては、癌による死亡者の推定に、前述した直線的仮定を用いた結果ではないかと危惧する。“或る線量以下は将来の影響は無視できる”という仮定を設けない限り、リスク係数に集団積算線量を掛合わせれば、対象とする人口が多くなれば、死者の数は1以上と計算される結果になってしまう。若し、過酷事故が起こったと仮定した場合、敷地境界付近においても1シーベルトを超える被ばくをする確率は非常に低いと想定される。従って、事故後暫くたって不幸にして癌により死亡した人がでたとしても、事故の影響と特定されることにはならない。

そのようなことを考えれば“安全目標”として、死亡率で表現するよりも「原子力発電施設に過酷事故が起こったとしても、事故の発生に際し、格納容器からの大量の放射性物質の放出を99.99999%の確かさで防ぎ、周辺住民の放射線被ばくを1シーベルト以下に抑制されるべきである」という表現の方が妥当であると考えるが如何なものであろうか。

4.              リスク管理について国会で議論を

大部分の社会活動は人間社会に多くの有益な成果をもたらす、それと共に上記のような各種リスクを伴うのが普通である。そして、リスクといっても多種多様で、上記のように性質上も、庶民の受ける感覚、国民感情もリスクの種類、その人の置かれた環境などにより、それぞれに微妙に違いがある。一方、リスクを減らすためには、それ相当の費用がかかる。それと同時に、他の部門に相当の犠牲を強い、新たなリスクを伴うのが普通である。例えば、毎年1万人近くの死亡者をだしている交通事故を減らすために自動車の数を少なくするのが一番手っ取り早いが、自動車の数を減らすべしという主張をする人は少ないであろう。原子力発電を排除すれば、石油供給に問題が生じた時の停電によるリスクは計り知れないものがある。先に述べたBSE問題でも、若し豪州にもBSEが発生した場合はどうなるのであろうか。国内世論を考慮するあまり、リスクに対し不必要に過敏になることは、不利益を蒙る可能性も高いことを認識しておく必要がある。

リスク管理は国民の命を守る政治の基本であり、行政だけに任せ、問題毎に処理すべき問題ではないと考える。貴重な税金を使って、国民の命を守るために、将来を見通して最も合理的に対処するにはどうすれば良いかという政治の問題として捉える必要がある。それには先ず関係省庁の垣根を越えて、リスクについて横断的にみた技術論による議論をすることが必要である。

最近は実況放送や省庁のHPにおいて、国会での議論を知るチャンスが多くなった。それ自身は非常に結構なことである。しかしそれらを見る限りにおいて、主題は発生したリスクについての議論であり、その内容は良いとしても、党派の政治的駆引きに流れているように思われてならない。党派を超えて、民意の反映し情緒的になるのではなく、正しい技術論で議論することが強く望まれる。

国会でリスクについての議論が行われることにより、国民のリスクに対する関心を高めることができ、また、リスクを数値化することは、確率的なリスクの考え方が国民に多少とも馴染やすいものとなると思はれる。その一つの方策として原子力の“安全目標”と同様、しかもさらに分かりやすい、交通事故の死亡者数目標値○○人以下、殺人事件○○人以下、伝染病死亡者数目標値○○人以下、エネルギーの国産化率○○%といった目標を示すことも考えられる。そしてその際これだけはお金が掛かるが絶対に達成しなければならない目標であるということを示す必要もあろう。その際、○○人なら死んでもよいのかという揚足取りの議論が必ず見られるが、これは厳に慎む必要があろう。

リスクについてもう一つ大切なことは、リスクの情報をいち早く国民に正確に伝え、単なる情緒論だけでなく、正確な技術論の知識を高めることが重要であるが、それと共に、リスクに対し国民は何をしたら良いかを周知させる努力も必要である。

一方、テロ、伝染病、輸入食料の例を見ても分かるとおり、リスク管理はわが国だけの努力で確実に行うことは最早難しくなっている。海外の事情を調査し、協力するだけでなく、早期発見・早期対応を含め、わが国から的確なリスク管理のための方策を提案して行く必要は益々高まってきていると考える。原子力発電の場合の国際協力、安全基準の統一、情報交換は更に重要であろう。

政策の方向付けが望まれる事項は多方面に亘っている。わが国で遅れていると云われるリスク分野の研究では、環境リスクの経済的評価、エネルギー安定供給についての社会リスクの取扱い等も含めた幅広い研究開発の推進と結果の公表が必要であろう。リスク管理としては、危機管理体制とそのために必要な履歴管理体制、検査体制、広報の在り方と方策、風評被害対策を含めた補償問題、国内基準と国際基準の整合性を含めた国際協力の基本的考え方等々が挙げられる。行政機関は政策立案に対しデーターを提出することは当然必要であるが、国会審議を通して決定された政策の基本思想に基づいて、担当事例について最善を尽くすという形にしていくべきではないだろうか。



[@] 原子力発電所の作業員で白血病または類似の悪性新生物(癌)に罹り亡くなった方があり、個人保護の立場から労災が認められた事例が数件ある。一方、原子力発電所の作業員の癌罹患率は統計上一般人より低いというデーターがあり、健康労働者効果と説明されている。そのような点からも白血病患者の発症は放射線障害によるものであると結論されたということではないと関係者は考えている。また原子力発電所とは直接関係はないが、JCOという会社において核燃料のコンバージョン作業に際し、認可作業以外の作業を行い、臨界事故を起こし、中性子被ばくを受けた2名の作業員が亡くなるという悲しむべき事例を経験している。

[A] 米国の規定は1基あたりであるが、わが国では多数基立地の場合では1サイトあたりと厳しく決められている。