電気新聞_(時評)_安全と安心 2004年2月4日

中村政雄

 

 技術的には運転して安全だ、と原子力安全・保安院が保証しているのに寸県の同意が得られないため原子力発電所の運転ができない状況が福島県と新潟県で続いている。運転再開に地元の同意が欠かせないと言われているが、東京電力が地元と結んだ安全確保に関する協定書では、原子炉起動のさいの地元同意は求められていない。起動の通報連絡義務だけである。法律、政省令、条例、安全協定のいずれにおいても、原子力発電所の運転再開に地元の同意が必要であるとの条項はない。

 東京電力としては地元の同意なしに運転再開をできる。それをしないのは地元との関係悪化を気遣うからだ。

 地元の代表として伝えられる県知事の発言によれば「安全であってもまだまだ安心できる状態にない」。

 安心とは何か。私は10年以上前、読売新聞に「安全と安心」という社説を書いた。専門家が技術的に安全だと保証しても、知識も経験も乏しい一般の人には理解し難いことがある。そこを何とか理解して頂く努力をしないと、社会的安心にならないと述べた。その後、講演や原稿などで100回以上主張した。

 原子力委員会などが、「安心が大事」と言い出したのは数年後である。私の主張から「安心」が広まったとすれば、いささか責任を感じる。

 私が考えた「安心」とは、相手の立場に立って考えることである。

 医者と患者の場合でいえば、医者は患者の立場に立って病状や治療法を説明するということである。患者が多いと診療時間は限られる。患者は十分に自分の病状を説明できないことがある。医者は知識と経験から「たいしたことはない」と判断しても、患者が納得するとは限らない。相手の気持ちを察して説明するのが親切な医療だ。

 原子力についての不安も、技術的に安全だと言うだけでなく、相手の立場に立って説明するように心掛けれぱ、納得してもらえるのではあるまいか。それが安全につながる。

 そうは言っても、最近の高校生の学力テストを見ても分かるように、あんなに易しい問題が半分もできない人が大勢いる世の中で、いくらうまく説明しても全員に理解してもらうことは不可能だ。結局は、相手を信頼するかどうかということになる。

 「あんたの言うことは難しくてよく分からんが、あんたの熱意は分かるから、信用するよ」

 そういうことで納得してもらったという話を、東京電力の福島原子力発電所長だった方に聞いたことがある。英国でもフランスでも同様の経験談を聞いた。人情は世界共通だ。

 安心は主観的で、同じものが見る人によって違う。安全と違って客観的基準がない。できることなら、安全も外から見て分かるように、客観的に見せる工夫がほしい。

 「もっと厳しくしろということか。科学的じゃないね。勘弁してよ}という声が聞こえそうだが、そういうことではない。

 全国も旅館に付けられているマル適マークを、原子力発電所にも付けることである。安全上重要な数項目について全部マルならA、1つ欠けたらB、3つ以上欠けたらCと表示する。これを安心基準にする。

 「そんなことで安心できるかと反発する方がおられるかもしれないが、大丈夫だ。旅館のマル適マークは定着していし、食品の賞味期限というややあいまいな表示が、社会的に安心基準として受け入れられている。

 駅で売る弁当や飲物も、絶対安全の証明はないままみんな安心して食べている。信用しているからだ。安心とは、信頼を裏切らないことである。