不都合の隠蔽はなぜ起こるのか
―理よりも情に支配されがちなわが国の社会
すなわち「世間」という目で見たひとつの仮説としてー
2007.6 宅間正夫
最近もさることながら、従来から公私を問わず様々な組織で「不都合の隠蔽」の例はとどまるところを知らない、という気がする。いわば「隠蔽することこそ組織の“個”の利を超えて“全体”の利につながるもの」という確信に突き動かされているように思われる位である。
1.組織は本質的に自己完結型
小生が気になるのは、組織すなわち「ある目的とタスクを負った集団(小は現場から大は会社さらには国の組織)は、基本的には、その目的・タスクを自分の組織の持てる力で完結させる」そして「壁にぶつかっても何とか自分たちで解決する」というような、本質的に自己完結型の性格を持っていることが、社会一般から見て往々にして忘れられていることである。当たり前といえば当たり前である。
そうした性格を持つが故に、個の組織は「それに属する人間達の強い連帯を生み、集団として人知を合わせてしっかりした仕事ができる」のではないか。また、ある場合には下部組織からそれを包括する上部組織までの全体の組織にわたってそれぞれの間に「個と全体の間の暗黙の価値の共有」があって「個と全体の利の見事な調和」ができる(組織ぐるみ)ということも良きにつけ悪しきにつけあるだろう。
またその共有価値が、これまた組織の持つ本質的な閉鎖性からして、個が負った当面の価値の維持に限られてしまい、個と全体が属する“社会”は視野にはいらない。個の課題を安易に上部組織や全体組織に預けることは「個の責任を放棄することにつながる」と思いこみ、「それを潔しとしない」思いをもつ。「組織の恥をさらしたくない」とか「個が何とか解決すれば全体に迷惑をかけずにすみ、全体が救われる」という自己犠牲的な心情も嗅ぎ取れるような気もする。ある場合には個人の保身の意図も否定できないだろう。
2.当事者自らが発言を
どうすればよいか。一般には「風通しの良い上下関係や左右の関係(職場環境・人間環境)をつくることにより、隠蔽をなくせる」という対策があろう。その理由は、上記の観点からいえば「下部にある現場組織の“個の利”とその上部組織・会社組織の“全体の利”との整合を図る、ということにあり、さらにその利を組織の利を超えて社会全体の利に拡大して考えること、ということではないだろうか。ということは、それぞれの組織を構成する個々人はもちろん、組織を管理し活動させる管理者・経営者としての個々人が、常にその属する組織の二、三段上の組織、さらに最終的には社会全体の利までを頭に心において行動し、発言すべき、ということと考えられる。当事者が不具合や失敗経験を率直に開示するのみならず、同時に社会に対しては「理を基本としつつ情を尽くして」当事者自らが発言していくことに帰するであろう。この姿勢は社会からの信頼形成のみならず、当事者間での失敗経験の共有は技術の進歩にもつながる、という確信が必要だろう。なお、上記の中で「利」という言葉が適切かどうかわからないが、ここでは目先の損が長い目での利、という意味も含めているつもりである。
また上記の論は組織を構成する個々人は「性善」であると信じることから発している。
3.西洋の「社会」とは日本の「世間」のこと
ところで「社会」という言葉であるが、わが国は明治時代に翻訳語として生み出した。西洋におけるこの言葉の意味は、「社会」とは自立した、理性を備えた個人によって形成されるもので、「理性を基本とする人間集団の場」ということのようで、個人とはキリスト教的な背景での「個」の確立した人ということらしい。われわれは社会とは本来こういうもの、ということを意識してはいないが、「社会に理解してもらう」という言い方がこれを暗黙に認めている。しかしこれはわが国における実際の「社会」とは大分違っているようで、わが国では「社会」とは「世間(世の中)」のことであり、そこでの個人は「世間」の中で人と人との相対関係の中で自分を位置づけ行動する、だから西洋風に神との絶対的な関係の中で自分を位置づける自立した個人ではないのではないか。
こういう「世間」では個人は理よりも情に支配される面が強く、「世間」自体も「理性よりも感性」に支配されやすいのではないか。ルース・ベネデイクトの「菊と刀」にいう、西洋は「罪の文化」で日本は「恥の文化」というのも、西洋では個人は内面の罪の意識によって行動が支配され、日本では世間体を気にする、「そんなことをするのは恥ずかしい」というように外面の恥に個人の行動が支配される、ということなのではないか。
日本人の文化が属事主義ではなく属人主義といわれるのもこれに起因するのだろう。会議で権威を持つ人の顔色を見て同調する、原子力の社会的受容に置いて“真実の報道”と信じ、それに権威を感じるマスメデイアの論調に信を置く、等の例に見るように「千万人といえども我行かん」の行動はなかなかとりにくい。
こういう「世間」では、科学技術に対する理性的な判断よりもそれを扱う当事者・科学技術者達への信頼性や彼らの思想・行動の基にある人間としての倫理性などが重視されるのも当然かもしれない。
4.「情の次元での対処」が隠蔽へ
隠蔽など昔から続いてきた理由も、「組織の外や社会に対して事実を率直に公表して理を尽くして説明するなど、理性に訴えて対処すれば理解される」という発想以前に、自分の組織に迷惑をかけない、世間を騒がせては申し訳ない、など「情に次元での対処」の発想が先立ってマイナス情報を隠蔽するようになったのではないか、また「世間」はトラブルの技術的内容よりも「トラブルを起こした」という事の方に感情的に非難が向けられることを恐れるから、という理由に帰されるような気がする。「理性的な原因追及よりも真っ先に責任の追求」というわが国の一般的な風潮も「やったのは誰だ」という属人的な面が重視されるわけで、上記の論と無関係ではないだろう。
なお西洋風のこうした個の確立に寄与したものにキリスト教の懺悔(告解)の制度がある、といわれる。個人が自分の内面を他人に告白するというきわめて異例ともいうべきこの制度によって、個人はいやでも自分の心を直視し、「罪」との照合から、個人の倫理が確立していった、という説もある。
5.「言い出す仕組み」と「言い出せる職場風土」に期待
隠蔽問題の再発防止策として「しない風土、させない仕組み」に加えて「言い出す仕組み」が追記された。上記のような「世間」の中での個人がマイナス情報を「実際に言い出せる」ためには、組織の中に従来の「世間」とはいささか異なる職場環境と人間関係(上下、左右)をつくることが今後の大きな鍵となる。「言い出す勇気をどう持たせるか」。それをリードするのは組織のトップであり、自ら手本を見せる管理者が強力なエンジンとなるべきことはいうまでもなかろう。東電のトップの姿勢と行動はこの点で大いに期待できる。
それにしても日本人の文化ともいえるこうした「世間」という構造の中で恥を忍んで罪を認め、告白することは大変な勇気がいるであろう。だからこそ今後は「先験的に事前に“こと”を捉え、未然に防ぐ」こと、これこそが「風通しの良い組織・職場」を経営から現場までが全力を挙げて作ることの意味であろう。
6.“理”の信頼と“情”の信頼
相互信頼を基本とする市場原理の自由経済社会では、不幸にして不具合が起こってしまったら、率直な事実の公表と説明は今後必須の行動原理となる筋道の通った論理に現れる“理”の客観性と同時に当事者の率直さ・謙虚さ・ウソをいわない誠実さによせられる“情”の主観性、この両面がこれからの「世間」への対応には重要な要素になるだろう。産業界の原子力部門が過去の不祥事の掘り下げを大きな教訓として必ずやこうした社会・「世間」に信頼され、受け入れられる組織・企業になっていくことを信じている。事業も技術も「社会の公器・公的活動」であることを当事者は今一度認識を新たにしてもらいたい。
このような「世間」を意識しての、単なる情報公開に止まらず技術者・専門家・当事者自身の声と姿による社会への働きかけは、原子力の社会浸透を妨げている「巨大・複雑な技術に対する“不安感”とそれを扱う技術者・当事者に対する“不信感”」という双子の社会感情の緩和に少しでも寄与できるのではないか。信頼は“理の信頼”と“情の信頼”とで形成されるようだ。
以上(エネルギーレビュー2007年7月号掲載論文原稿)