1986年4月26日(土)午前1時24分頃、旧ソ連(現ウクライナ)キエフ北方約100kmに位置するチェルノブィリ原子力発電所4号機で起きた事故。
4号機は旧ソ連が開発した独特のRBMK-1000と呼ばれる型の原子炉(黒鉛減速多チャンネル管沸騰水型原子炉)で、事故は発電所の停止に伴う非常電源確保のための実験を行った途端に発生した。事故の原因は、安全に意を注がなかった発電所の設計が根幹に有るが、俗に6つの規則違反と称される安全規則違反が実験の準備として行われた結果、原子炉の状態が設計者の意図しない不安定な領域に至っていたことが直接原因として挙げられる。実験者はこの不安定な状態に気付かず実験を行ったことによる。
事故原因の概要は、次のように説明されている。
原子炉は6つの規則違反により運転規則で禁じられている低出力低沸騰状態にあった。実験開始により炉からタービンに供給している蒸気を停止したため、炉心内のボイド(蒸気体積)が急激に増加し、これが炉の特性である正のボイド係数と相まって炉心に大量の反応度を印加する結果となり、暴走出力を発生する反応度事故を誘引したもの。
暴走出力によって、生じた燃料破壊が引金となって炉心が損傷し、また高温となった燃料及び圧力管の金属−水反応により誕生した水素の放出による爆発が生じ、原子炉建物を大きく破損した。炉心から放散された黒鉛や燃料集合体がタービン建屋他の天井に落下し火災を発生した。この火災は、駆けつけた消防士の活動により鎮火したが、この際に多くの消防士は大量の放射線を被曝した。
1日程後に、炉心の黒鉛の燃焼が始まり5月1日までの炉心火災に発展した。この火災発生によって約5Km離れたブリビャチ市の放射線レベルが上昇し始めた。このため発電所周辺30Kmに住む人達約13万人に対し27日午後、強制避難命令が出された。発達した炉心火災の作る上昇気流により気化した放射性物質は上空約1km~2kmまで吹き上げられた。この放射性物質はジェット気流に伴われ、世界各地で検出されている。日本にも事故後一週間程後に検知された。
火災による放射性物質の放散による汚染は、近隣の欧州諸国で著しく、野菜・牧草・牛乳・キノコ類の汚染となって現れ、一時放射能汚染の高い食品の摂取制限を行った所もあった。特にジェット気流が雨雲と出会って雨となった地域(ミンスク・ブリヤンスク等)はチェルノブィリから比較的離れた場所であるにも関わらず、汚染が特に甚だしく、後述する事故の放射線被曝後遺症となって現存している。
炉心からの放射性物質の放出は火災鎮火により一旦収まったが、5月2日〜5日にかけて再度増加した。これは残留熱による炉心燃料の溶融によるものと解釈できる。
5月末頃より軍による復旧作業が開始され、延べ60万人余が除染作業に従事したといわれる。建物天井に蓄積した上部の放射性物質は長尺のブラシで地上に落とされ、これらが落下した建物周辺の地面は厚いコンクリートを打って遮蔽を施した。また壊れた原子炉建屋全体は石棺と呼ばれる簡易覆いが天井及び側壁の一部に作られ、炉心からの放射性物質の放出拡散を防いでいる。尚、石棺とは呼んでいるものの造りはただ鉄板を敷き立てたもので、厳重な遮蔽壁で覆われたものではない。誤解を与え易いので念のため。
事故による死亡者は31名、このうち29名は最初の火災の消火に当たった約400名の消防士の内特に放射線被曝の大きかった人達であり、後の2名は爆発による圧死である。また放射能汚染の甚だしい地域では、小児の扁桃腺癌の多発が放射線被曝後遺症として報告されている。しかし、懸念された白血病の発生は今のところなく、これまで明らかとなっている広島や長崎並びに医療放射線による後遺症とは異なっている。
なお、事故10年程後に復旧作業従事者の死亡者数が5万人(一説には3万)と報道され、チェルノブィリ事故による死亡者は放射線後遺症が非常に多いと書き立てられ、信じられているがこれは誤りである。ロシア政府の発表によれば、ロシアにおける年齢と死亡率の関係からいって、復旧作業従事者と一般の人達の死亡率や死亡原因に差は無く、むしろ従事者には放射線被曝とは無関係な心身症・心臓病・高血圧症が普通より高く現れていると言う。これは復旧作業により大量の放射線を浴びたという心理的ストレス、特に報道やマスコミによる発表に原因があると言う。(石川迪夫)
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