TMI事故
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1979年3月28日、米国ペンシルベニア州スリーマイルアイランド原子力発電所2号機(TMI-2)で炉心が一部溶けるほどの事故(国際評価尺度レベル5の事故)が発生した。この原子炉はバブコック&ウィルコック社設計による電気出力95.9万kWの加圧水型原子炉(PWR)で、事故は営業運転開始後わずか3ヶ月後のことであった。下図にTMI-2の概念図を示す。
図を参考に以下事故の経過を示す。なお参考までに( )内に図中の番号の事象を示す。

TMI-2では運転開始後弁の漏洩等数多くのトラブルが発生していたが、それらを完全に修復することなく運転が継続されていた(これが事故の遠因)。事故の発端は計装用空気系への異物混入による主給水ポンプの停止で、通常は補助給水ポンプが動いて問題なくおさまるが、このときには補助給水ポンプ出口弁が2個とも閉じられていた(違反@)。
そのため蒸気発生器へ2次冷却水が給水されずに冷却能力が低下し、原子炉系(1次系)圧力が上昇し、加圧器逃し弁が1次系圧力を抑えるために開弁した。事故発生後約8秒で原子炉は自動停止したので1次系圧力は急速に低下し、加圧器逃し弁の閉止設定圧力まで低下したが、加圧器逃し弁が故障して開いたままとなった(設備故障A)。
しかしそのことに運転員が気がつかなかったので、その弁から一次冷却材が流出し、一次系圧力はさらに下がり続けた。異常事態である非常用炉心冷却装置(ECCS)作動設定圧に達したため安全設備である高圧注入ポンプが設計どおり作動し、燃料交換用タンクからの水を炉心に注水しはじめた。しかしながら、一次系圧力低下に加え、蒸気発生器の除熱能力低下により、炉心出口等の一次冷却材の高温部が局所的に沸騰し一次系全体の体積を膨らませたので、加圧器水位は上昇し、見かけ上一次冷却材の量が増加した挙動を示した。他の計器は一次冷却材が減少していることを示していたが、運転員はこの加圧器水位上昇だけから判断して、加圧器満水による圧力制御不能状態を回避するために、高圧注入ポンプを手動停止した(違反B)。
この結果、一次冷却材の減少が続き蒸気泡が増加したため、キャビテーションによる一次冷却水ポンプの振動が激しくなったので、ポンプ破損を恐れた運転員は一次冷却水ポンプを手動停止した。ポンプが停止されると循環流が止まり蒸気と水が分離し、炉心の上部が蒸気中に露出し始めた(望ましくない運転C)。
一方加圧器逃し弁から流出した一次冷却材により、加圧器逃しタンクの圧力が上昇し、圧力逃し装置が開き、格納容器内に一次冷却材が流出した。この一次冷却材中の放射性物質は格納容器内で閉じ込められていたが、格納容器下部のサンプに水が溜まり水位高となったので移送ポンプが自動的に作動し、補助建屋内の廃液貯蔵タンクへ高放射能の一次冷却材が移送された。補助建屋内の設備は完全には密閉されていないので放射性ガス等が漏洩し、一部補助建屋換気系から排気筒経由で発電所外へ放出された(設備設計の不備D)。
事故発生2時間20分後に運転員はやっと加圧器逃し弁が開いているのに気づき、元弁を閉じたが、高圧注入ポンプからの水が不足していたので炉心の水は蒸発し、炉心の上部2/3程度が露出していたと考えられる。事故後3時間20分後に高圧注入ポンプを起動し炉心に注水し、炉心は冠水した。事故後13時間20分に一次冷却水ポンプを動かしループに溜まっていた気泡を除去し、自然循環を確立した。事故後15時間50分後に蒸気発生器を通じての除熱に成功し、事故は制御可能な状態に収束した。
格納容器の閉じ込め機能は健全であったので大部分の放射性物質は格納容器内に留まっていたが,一部の放射性物質は補助建屋の換気系等を通じ放出された。それらは主として気体状の希ガスとよう素で、それらによる周辺公衆の外部全身被ばく線量は、最大となる状況を仮定した場合でも1ミリシーベルト以下で、通常の人の年間被ばく線量2.4ミリシーベルトより低いものであり、健康への影響は無視しうる程度と考えられた。
しかしながら、この事故の米国及び世界に与えた影響は非常に大きく、チャイナシンドローム(炉心が溶けて地球の裏側のチャイナ<中国>まで溶かしていく)などと大げさに言われ、原子力事故の怖さが喧伝された。また原子力界も起こると思っても見なかったような炉心溶融事故に遭遇し、大いに反省し、大々的に原因究明及び対策を行なった。特に誤認や誤操作等が生じないような人に優しい設備構成等が研究され構築されていった。わが国でも52項目のTMI教訓項目が発表され各プラントに反映された。この結果、西欧型の軽水炉(PWR,BWR)は非常に安全性が高められていった。(松岡強)
チェルノブイル事故
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1986年4月26日(土)午前1時24分頃、旧ソ連(現ウクライナ)キエフ北方約100kmに位置するチェルノブィリ原子力発電所4号機で起きた事故。
4号機は旧ソ連が開発した独特のRBMK-1000と呼ばれる型の原子炉(黒鉛減速多チャンネル管沸騰水型原子炉)で、事故は発電所の停止に伴う非常電源確保のための実験を行った途端に発生した。事故の原因は、安全に意を注がなかった発電所の設計が根幹に有るが、俗に6つの規則違反と称される安全規則違反が実験の準備として行われた結果、原子炉の状態が設計者の意図しない不安定な領域に至っていたことが直接原因として挙げられる。実験者はこの不安定な状態に気付かず実験を行ったことによる。
事故原因の概要は、次のように説明されている。
原子炉は6つの規則違反により運転規則で禁じられている低出力低沸騰状態にあった。実験開始により炉からタービンに供給している蒸気を停止したため、炉心内のボイド(蒸気体積)が急激に増加し、これが炉の特性である正のボイド係数と相まって炉心に大量の反応度を印加する結果となり、暴走出力を発生する反応度事故を誘引したもの。
暴走出力によって、生じた燃料破壊が引金となって炉心が損傷し、また高温となった燃料及び圧力管の金属−水反応により誕生した水素の放出による爆発が生じ、原子炉建物を大きく破損した。炉心から放散された黒鉛や燃料集合体がタービン建屋他の天井に落下し火災を発生した。この火災は、駆けつけた消防士の活動により鎮火したが、この際に多くの消防士は大量の放射線を被曝した。
1日程後に、炉心の黒鉛の燃焼が始まり5月1日までの炉心火災に発展した。この火災発生によって約5Km離れたブリビャチ市の放射線レベルが上昇し始めた。このため発電所周辺30Kmに住む人達約13万人に対し27日午後、強制避難命令が出された。発達した炉心火災の作る上昇気流により気化した放射性物質は上空約1km~2kmまで吹き上げられた。この放射性物質はジェット気流に伴われ、世界各地で検出されている。日本にも事故後一週間程後に検知された。
火災による放射性物質の放散による汚染は、近隣の欧州諸国で著しく、野菜・牧草・牛乳・キノコ類の汚染となって現れ、一時放射能汚染の高い食品の摂取制限を行った所もあった。特にジェット気流が雨雲と出会って雨となった地域(ミンスク・ブリヤンスク等)はチェルノブィリから比較的離れた場所であるにも関わらず、汚染が特に甚だしく、後述する事故の放射線被曝後遺症となって現存している。
炉心からの放射性物質の放出は火災鎮火により一旦収まったが、5月2日〜5日にかけて再度増加した。これは残留熱による炉心燃料の溶融によるものと解釈できる。
5月末頃より軍による復旧作業が開始され、延べ60万人余が除染作業に従事したといわれる。建物天井に蓄積した上部の放射性物質は長尺のブラシで地上に落とされ、これらが落下した建物周辺の地面は厚いコンクリートを打って遮蔽を施した。また壊れた原子炉建屋全体は石棺と呼ばれる簡易覆いが天井及び側壁の一部に作られ、炉心からの放射性物質の放出拡散を防いでいる。尚、石棺とは呼んでいるものの造りはただ鉄板を敷き立てたもので、厳重な遮蔽壁で覆われたものではない。誤解を与え易いので念のため。
事故による死亡者は31名、このうち29名は最初の火災の消火に当たった約400名の消防士の内特に放射線被曝の大きかった人達であり、後の2名は爆発による圧死である。また放射能汚染の甚だしい地域では、小児の扁桃腺癌の多発が放射線被曝後遺症として報告されている。しかし、懸念された白血病の発生は今のところなく、これまで明らかとなっている広島や長崎並びに医療放射線による後遺症とは異なっている。
なお、事故10年程後に復旧作業従事者の死亡者数が5万人(一説には3万)と報道され、チェルノブィリ事故による死亡者は放射線後遺症が非常に多いと書き立てられ、信じられているがこれは誤りである。ロシア政府の発表によれば、ロシアにおける年齢と死亡率の関係からいって、復旧作業従事者と一般の人達の死亡率や死亡原因に差は無く、むしろ従事者には放射線被曝とは無関係な心身症・心臓病・高血圧症が普通より高く現れていると言う。これは復旧作業により大量の放射線を浴びたという心理的ストレス、特に報道やマスコミによる発表に原因があると言う。(石川迪夫)