第7話 

世界に果たすべき日本の役割―吉田康彦教授の「時評」に関連して

 

                           エネルギー問題に発言する会

                                    天野牧男

 

この時評の先ず最初に『市民社会の台頭が大きな国家プロジェクトとは相容れない』とあります。市民の一人一人に自分の勝手な事を言わせて、ごみの焼却場の建設は良いけれど、私の裏庭ではお断りとする、NIMBYのような論議ばかりがまかり通るようになったら、その市民社会は成り立っていくのでしょうか。戦後の我が国の教育もこれに近い様に思います。子供の自主性を重んじるあまり、父親も母親も「何々ちゃん、勉強したい、遊びたい?」いと聞いています。これで子供が「僕勉強」と答えて勉強するはずがあると思えません。少なくとも筆者の子供の時は駄目でした。

社会というものがよりよく成り立っていくために、市民の良識を重んじながら、国の適切な調和のある発展と、社会の環境をどう維持していくかの舵取りを適切にやることが、優れた市民社会から成り立つ国家であり、困難ではあるけれど目指さなければならない、国のありようでありましょう。市民社会になって来たから、国としては必要だけれど、皆が駄目だと言うから駄目だでは、勉強はしたくないならしなくてもいいいという、自主性を重んじると言葉だけ美しい戦後の教育のそれと大差がないようであります

また『原発の場合、安全性に配慮すればするほど発電コストが高騰すると言うジレンマがある』とありましたが、これこそ技術や産業の本質を知らない発言です。論じると長くなりますが、何故戦後の日本の自動車産業が伸びたとお思いでしょうか。日本の自動車の多くは性能も良くなったのですが、所謂品質も断然高くなりました。自動車を組み立てる夫々の部品の品質や精度管理を徹底的にやりました。勿論その限りでは部品のコストは上がります。しかしそれによって所謂おしゃかは減り、生産工程での後戻りがなくなりました。このため総合的な生産コストは減少し、出来たものはそれぞれが精度良く出来ているのですから、完成したものががたぴししません。

このため我が国の自動車は性能、品質が良くなって、コストがどんどん下がりました。今日の日本の自動車産業が、世界のリーダーになれたのはここにあります。

我々は原子力発電所の機器を数多く生産して来ましたが、同じ考え方で進めて来ました。例えば溶接の品質向上に、たゆまない努力をして来ました。これは決して容易なことではありませんでしたが、自動車産業が開拓者になったTQCを徹底的に活用して、溶接の補修の割合いを激減させました。勿論これには費用も掛かりますし、努力も要ります。しかし溶接の補修が減れば、補修という無駄な作業がなくなりますから、当然コストが減少します。最初にかけた溶接の補修を減らすための費用など、十分にカバーしておつりが来ました。いい溶接というのは安全度を高めますが、コストは下がります。

また原子力発電所の中にも色々な機器があります。原子炉圧力容器のようにその中で原子核反応をしていて、何百万キロワットという熱を水や蒸気に伝達しているものもあります。それとドレン管、先日浜岡原子力発電所の2号機で水漏れが起きたのはこの種のパイプの溶接部ですが、プラントの中での安全性に関与する度合いは非常に違います。勿論どんな所からでも漏れるのはよくありませんが、その安全性への寄与度に応じた設計や製作をすることが必要なのです。この発電所内の機器や配管の重要度に応じた解明を十分にやって、余り必要もないバックアップシステムをつけたり、無駄な高度な作業をしないようにすることも大切です。こういった機器や配管の重要度に応じた建設を行うことが、まさにより安全な。発電所を作ることになります。安全性に配慮すればするほど、作業は着実になって、無駄な費用は掛からなくなり、返って建設費は下がって来ます。

我が国の原子力発電所の建設費は、この1020年の間に随分下がって来ています。これは勿論発注する側と、製作する側との並々ではない努力のお陰でありますが、今述べた品質の向上、安全性の向上によるコストの低下も相当に貢献しています。筆者はかって海外から研修に来られた企業の幹部に、品質管理の話をするよう求められたことがありました。「いい品質のものをつくると、価格が下がるというパラドックスが、パラドックスでなくなった時、今日の日本がありました」というのがその出だしの言葉でした。この戦後の日本を作り上げるのに貢献して来た、ものを作る事に生涯を傾けてきた人たちの真剣な努力は、ジャーナリストの方たちにはお分かりになっていないようですね。

もう少し続けましょう。『環境にやさしいをセールスポイントにして、原発の復権を試みたが、効果はなかった。チェルノブイリ事故の後遺症は余りに大きく深刻だった。ブリックスIAEA事務局長は1992年リオデジャネイロの「地球サミット」に乗り込んで「温暖化の決め手はクリーンな原子力で」と訴えたが、各国から冷たくあしらわれた。』更に少しおいて『「温暖化対策を原発で」という声は何処からも聞こえてこない』と述べられていて、したがって原子力は温暖化に役に立たないと決め込んでいます。問題は冷たくあしらわれた事にあるのであって、何故正しい意見が冷たくあしらわれるのか、考えなければならないのに、そこでああそうですかでは困ります。グリーンピースが反対したらすべて駄目なのか。グリーンピースがいかなる団体かは、先日の鯨の国際会議でも十分明らかになっています。論理ではなく、ただ鯨を殺すのは駄目それだけで、世界の水産資源を適切に管理出来るとは思えません。   

かって世界エネルギ会場の入り口に「NO NUKE NO CO2」という横断幕を広げていましたが、これでどうしようというのでしょうか。この正論があしらわれて封じ込まれてしまった事に問題があるのであって、それを議論し解決の道を探る事を、本当に地球の事を考えるならするべきで、皆が反対だから駄目というのでは、これが論議をする立場の人のあり方でありましょうか。

筆者は環境問題について、全くの素人で真の環境への影響をもたらすものが何であるかはよく分かりません。炭酸ガスやフロンガスなどが、地球の温暖化を齎し、それによって各種の問題が発生するかどうかはっきりしませんが、今から1万年程前地球が寒冷で、そのため海洋の水位が100メートルも下がり、亜細亜大陸と日本列島が陸続きとなり、そのため日本民族の祖先や、動物たちが渡来したという話を聞きました。これは過去の事でありますから、かなり信憑性の高い話だと思いますが、環境の変化でこんなにも海洋の推移に変動があるのであるならば、地球の温暖化で相当の海洋面の変化があって、人類の生活に大きな影響があってもおかしくないように思えます。

自然の変化に対して、人類の影響が大きいか小さいかも問題になりますが、都会のヒートアイランド現象を見ると、これだけ人口が増え、消費するエネルギーが増加すると人間によるインパクトもだんだん無視できなくなると考えるべきもののように思えて来ます。

とすれば、人々の生活レベルを維持し、低開発国などの貧困を解消する努力をするにはどうするべきか。人類の一員として出来る限り地球環境に悪影響を与えない努力を果たさなければならないと思えて来ます。

筆者と同じ会の益田氏や他の方が述べておられるので、少し結論を急ぎますと、これに貢献できる技術は現在の地球上には原子力発電しかありません。地球上のいかなるものでも100%完全なものはありません。原子力発電においても、それ自身完全なものではありませんが、その実績は人類の叡智を傾注する事で、十分安全にその目的を果たせるだけのポテンシャルがある技術だということを示しています。問題は皆が力を会わせて、守り立てて、その欠点があればそれを解決する努力をするかしないかであります。

何もしないで、皆が駄目だと言っているから駄目では、使えるものも使えなくして、折角の資源や宝を捨ててしまい、人類の生活や環境を破壊する事に手を貸すだけです。

 筆者のこの「原発反対の風潮の広がりを愁う」という中のまえがきで、

反対されるのは自由であるかもしれませんが、その反対が国家や公共にとって、大きな損害を与える恐れのあるものだという事は十分念頭においてやって頂きたい。発電所を一つ作るのは、何も原子力発電でなくても、そう簡単なものではありません。しかし反対と言う方からは何故反対かという話は何もありません。ただ「原子力は、原発は危険だ。こんな危険なものを、我々の美しい郷土に作られてたまるか」とやればいい訳です。然しそのことが、長い目で見てわが国の将来に、その郷土の人も含めて、大きな不利益を与えるかもしれないことに、責任があるという認識を持つ必要があるのだということを、忘れないで欲しいと思うものです。』

と述べておきましたが、反対が国や世界の資源の活用や環境に好ましくない影響を与えた場合の責任をよく自覚していただきたいところです。

 筆者は地球環境を少しでも良くするための「白馬の騎士」は原子力発電の世界的な展開だと考えています。勿論原子力発電にも幾つか問題があります。しかしこれらは人類の今日まで築き上げてきた科学技術で解決できないものではありません。大切な事はこの技術を盛り上げて、人類を救う手段にして行こうという多くの人の気持ちであります。

 昭和30年代の後半から、我が国でも原子力発電所の建設が進み、今日の電力供給の中心的役割を果たして来ました。その間一度も重大な事故を起こすことなく、一人の死亡どころか、僅かな障害すら与えていませんし、発電所外に有害な量の放射線の流出を起こした事もありません。この40年の実績は人類が開発してきたどの技術、産業と比べても傑出したものです。これを生かさない手はありません。

ただ現在は環境を論ずる人たちの間で、必ずしも原子力発電がこのようにとらえられておりません。ただだからそうですかではなくて、原子力発電が環境問題において白馬の騎士だという理解を得られるように努力すべきだということです。

最後に最も言いたいことがあります。現在我が国の国際的な発言力は決して高いといえません。国力並みでは全くありませんし、ODAで拠出している援助金は世界で1位か2位なのに、その発言をあまり重く見られているようには思えません。先日の京都会議でも当時の川口環境大臣が随分頑張られたようですが、未だイマイチの感じが否めません。これは日本に発言に重みをつける武器がないことにあります。筆者はこの環境問題にとっての「白馬の騎士」を高く標榜して、その建設のための国際貢献を約束し、実際に努力することが、我が国のプリステージを高める事になると思います。そして現実に国際貢献が計られます。

勿論問題はありますが、一つ一つ解決して前に進んでいくのです。世の中の人が駄目だというから駄目だでは、それこそ駄目であります。              以上