まえがき          
                  原発反対の風潮の広がりを愁う
 
                              エネルギー問題に発言する会 天野牧男

 世界的に原子力反対の動きが激しくなり、ドイツなどでも廃棄物処理施設の問題などから、今後の発電所の建設ばかりか、現存のプラントの運転すら難しくなって来ているようです。
 こういった傾向はわが国でも広がりつつあるようで、特に原子力発電所の建設予定地の住民の反対の傾向が広がってきていて、柏崎ではプルサーマルの実施に待ったがかかりました。
 この傾向は確かに最近発生した原子力関係のトラブルが、原子力に対する不信感を高めたことにあるようです。またそういった問題が起きた時の対応にも信頼を損ねるような事象がありました。しかし基本的に、わが国の原子力発電所で起きた事故と称されているものは、高速増殖実証炉の文殊のそれを含めても、客観的に内容を見れば、それ程深刻なものではありません。国際的にイベントのスケールと言われていますが、何か問題が起きた時にその程度を示す国際原子力事象尺度(INES)ではそのレベルが0から最高の7まであるうちで、高速増速実証炉「文殊」のケースが1、今度の浜岡原子力発電所1号機で、緊急冷却系の破断が1、圧力容器のスタブチュウブの溶接部からの漏れが0+で、そのレベルは高くありません。内容から言えば事故というものではありません。チェルノブイリは論外ですが7、スリーマイルアイランドで5でした。
わが国の場合、放射線の漏洩は、外部は勿論発電所の構内に対しても全くないわけで、冷静に受け取れば、機械装置の持つある種の必然性でありますし、充分対応出来るものであります。
 勿論ごく僅かの液体の漏洩でも、故障でも、対応する方としては、厳密に検証し、原因を調べ、対策を検討していく必要があります。しかしだから原子力発電所は危ないとされてしまうのは、それこそ非常に危険な傾向だと思います。
 我々が「エネルギー問題に発言する会」をこのたび立ち上げたのも、この事実が、事実として受けとめられることに、少しでも役に立ちたいという願いからでありました。
ところで昭和30年頃原子力の必要性が叫び出された頃、その理由はわが国の将来のエネルギーをどうするかということでした。
 石炭に替わって、安くて使い易い石油が、じゃんじゃん輸入されるようになり、わが国の経済発展は、これによって大きく支えられたのですが、その石油の埋蔵量があと30年しかないという見通しが出たことが、原子力に目を向けるようになった最初の原因でありました。昭和32年頃原子力の開発の必要性が叫ばれ、中曽根科学技術庁長官が『ぼやぼやしているから、札束で学者のほっぺたを叩いてやった』と言って、原子力の研究費を国家予算から出るようになったのは、そういった時代でした。
 従ってこの頃の原子力は、それによる発電単価が高い安いの問題ではなく、石油が枯渇した後の、わが国のエネルギーを支える、もっとも有力な候補として浮かび上がったものでした。原子力の発電単価が最も安いなどという話は、昭和40年代の終わり頃に、突如発生したオイルクライシス以来のことです。勿論あまり高価では、国を支えるエネルギーにはなりませんが、原子力を発電コストからだけ考えて、今日の状態を作り上げたものではないという事は、承知していただいておく必要があります。現在電力の自由化という動きが、大きな動きになっていますが、エネルギー問題はそれだけで解決出来るものではないと思います。
 これから論じて行きたいと思いますが、我々に必要なのはエネルギーであって、何が何でも原子力というものではありません。しかし、色々な観点から考えてみて、原子力が非常に優れたエネルギー源であるからこれを利用して来たのであります。このことに関連して、何故電力会社が原子力を主要な電力源にするかなどについても、述べて行きたいと考えています。
 原子力が安全面を考えても、優れたエネルギーであるとすれば、これを採用しなかったり、いたずらな妨害をすることによって、無駄な費用がかかるようにする行動は、国家にとっても極めて有害な、害悪をもたらす行動であります。
 発電所の近くに住んでおられて、万一の事故が生命や健康に被害を受けると考えておられる方には、充分な説明が必要かと思いますが、そうでなくてただ反対と叫ばれる人達がいます。
反対されるのは自由であるかもしれませんが、その反対が国家や公共にとって、大きな損害を与える恐れのあるものだという事は十分念頭においておいてやって頂きたい。発電所を一つ作るのは、何も原子力発電でなくても、そう簡単なものではありません。しかし反対という方からは何故反対かという話は何もありません。ただ「原子力は、原発は危険だ。こんな危険なものを、我々の美しい郷土に作られてたまるか」とやればいい訳です。然しそのことが、長い目で見てわが国の将来に、その郷土の人も含めて、大きな不利益を与えるかもしれないことに、責任があるという認識を持つ必要があるのだということを、忘れないで欲しいと思うものです。
 これからここで、今述べて来たことに関連するいくつかのことを論じて行きたいと考えております。それらはこの「まえがき」との関連の深いもの、あるいは少し違った観点からの話になるかもしれません。しかしその場合も、ここで述べた趣旨を、総合的に見て裏付ける方向のものになると思っております。その内容は多年の間、私の中に累積して来たものであるからであります。