原子力を考える

2003.10.7

エネルギー問題に発言する会 

株式会社BWR運転訓練センター

                  中尾 昇     

1.  はじめに

原子力発電については、特に最近、“自主点検等に係る不正問題”が明らかになるという事もあり、メディアをはじめとして風当りは厳しさを増しているようです。不正問題は勿論、断じて許されるようなものではありませんが、それがあったからといって、果して原子力発電というものは、それほどメディアに攻撃されなければならないものなのでしょうか? 一般論として他の物事と比べれば、どれくらい害が大きく受け入れがたいものなのでしょうか。一度、何かと比べてみる必要がありそうです。

たとえば「最近おこった路線バスの飲酒運転と原子力発電所の不正問題とでは、どちらがより危険で受入れ難いですか?」と問えば、多くの方々は「バスと発電所を一緒にするとは不見識な」と思われる事でしょう。この話は一つの例ととらえて頂きたいと思います。

バスも発電所も定められた安全基準を満足しているのですが、

・法の順守がなされていない発電所は受入れられない

・同じく法の順守がなされていないバスも受入れられない

と回答されるかも知れません。この判断は特定のバス、発電所に関するもの、すなわち各論であり、公衆の受容性に対する一般論ではありません。つまり、この例を一般論に拡大して、バスや発電所を受入れられないということに直接的に結びつけることはできません。「何をどのように比較したらよいか分からぬし、内容そのものもよく理解していないし、情報も不十分なので、どちらがより受け入れ難いか?も判断できかねます」、と回答されるかもしれません。この回答は、よく分かっていない物事に対する姿勢としては申し分ないものです。

よく分かっているとなお良いのですが、考えていただきたいのは、“不正問題”や“時々のトラブル”を契機に脱バス論や脱原発論に走るのは、あまりにも短絡的に過ぎるのでは、という点です。つまり、対象となるものについてよく理解してない状態で判断すると、偏見につながるのです。自分の、あるいは公衆の将来に関わる切実な問題については、考えたり、判断するための材料を多少たりとも持っているべきです。また、一般論で考えたり、何かと比べたりする事が、客観的な判断をする時に有効な場合が多いようです。

ちなみにこの例は人の行動(法の順守)に係る問題、すなわち企業(組織)とそれを構成する人の問題です。そして、“何にも増して安全というものを最優先しよう”という「安全文化」の醸成に一層力を入れるという姿勢が求められているのです。

以下の章では、一般論として受け入れられている乗り物などと、逆風にさらされている原子力発電所とでは何が異なっているのか?という事について、後者に焦点を当てて論じてみたいと思います。

 

2.よくわからない原子力

それでは、一般論として“なぜ原子力発電所が受入れ難いのか?”という問題について考えてみましょう。

原子力発電所は何と比べて安全であったら良いのでしょうか? または同じ土俵の上で何かと比べた事があるのでしょうか? あとで5.章にてふれますが、最初に「絶対的な安全というものは存在しない。何事にも危険性(リスク)はある。」ということを頭に入れておいてください。つまり安全とは相対的なもの、なにかと比べて考えるべきものであるということです。

 原子力発電が例えば火力発電より害が多いという、科学的事実に基づく記事にはお目にかかった事はありませんが、前者については

・中央集権的な管理

・特化された専門技術

への生理的嫌悪感があるうえに、“よくわからぬ安全性”(核爆発、放射線、プルトニウムなど)というものへの不安感がぬぐい切れないのでは?と思われます。

人々が受入れ難いと考える対象は

・突然の大惨事

・未知のもの

・なすすべのないもの

などと、よく言われていますが、“よくわからない原子力発電”は、それにぴったり当てはまるようです。

 昨今、安全と安心という二つの言葉は、前者が技術論、後者が感覚論的なものとして用いられ、「安全だというよりも安心させてくれ」というような論調が増えてきました。元々安全だから安心できるのであり、全く別の物ではなかったはずのものです。それでは、技術的にはわからなくても安心できるとはどういう事でしょうか? 恐らく人々は身近な経験でそれを判断しているのであろうと思います。家電は使い慣れているから安全、自動車は自己責任で安全、火力発電は原子力に比べ古くから身近にあったので安全、という類のことかも知れません。

原子力はというと、危ないという報道が多いので受け止められない、即ち常識(誰が考えてもそうでしょう)のレベルに達していないということだと思われます。教材や情報は巷にあふれていますが、公衆にとって原子力の知識を体系的に身に付け、常識化することは、個人の努力の域を越えているといわざるをえません。ですから、“すべての情報を公開してあります”では済まされぬ、構造的な問題が存在しています。

一例として“目に見えぬ恐怖”などといわれ、よくわからぬ恐ろしいものといわれている放射線について考えてみましょう。これは、1897年に発見されて以来100年を経て最も普及したものの一つであり、完全に我々人類が手中に収め、おおよそ放射線のない暮らしなど考えられないくらい広く活用しているのです。従って“よくわからぬ”というのはその個人にとって正しくとも、“よく知られていない”というのは一般論として間違いです。また、我国や欧米諸国の発電用原子力設備に於て放射線による公衆死者はゼロなのです。即ち放射線被害という意味に於て、原子力発電は模範産業であるといえます。

 

3.メディアの力

しからばなぜ原子力発電は受入れられ難いのか、という点について考えると、やはりメディアの力も大きいといわざるを得ないと思います。例えば、米国のTMI(スリーマイルアイランド)事故について考えてみましょう。この事故は、1979年に発生し、炉心が部分的に溶融しました。これは、米国史上最悪の原子力発電所事故ですが、死者・負傷者はゼロです。また、プラントから5km圏内にある町の公衆への平均放射線被ばく量は、年間の自然放射線量の1%以下という少ないものでした。

ところが、その後何ヵ月にもわたり、新聞は公衆の恐怖をあおるような記事を書きつづけたのです。だから今でもTMIは“一般公衆への大災害”であったと思っている人々が多くいる事でしょう。しかしTMIは我が国や欧米の原子力発電所と同じく、多重の安全設備や格納容器などを備えているので公衆災害は防げたのです。

チェルノブィリ事故はそれと少し異なっています。1986年に起こったもので、炉心部の蒸気爆発と炉心をとりまく黒鉛燃焼で世界中に放射性物質をバラまいた、まさに史上最悪の事故です。この時、消防士などの当事者が31名が死亡しましたが、懸念は一般公衆の放射線被ばくという事故の余波にこそ大きかったのです。

特にヨーロッパでは、TMIの時と同じく、沢山の恐怖をあおりたてるような報道が蔓延しました。その結果、トナカイ肉やその他色んな食料品が汚染されているからといって大量に廃棄されたり、それらの状況をみて多くの人々が精神的にも深く傷ついたのです。

1991年に国際原子力機関(IAEA)によって25カ国、200人の科学者による健康影響評価がなされました。この時は周辺領域(半径30km以上)に住む人々の健康確保について、徹底的に丸1年かけて評価がなされました。

 その結果、「がんや遺伝的影響の増加の度合について、はっきりと確認することは容易でない。」と報告されました。この結果は、メディアによって報道されたものとかなり異なったものでした。事故後1年間の公衆の放射線被ばく量は、最も高いソ連や東欧諸国ですら自然放射線による年間被ばく量の1/4以下であった事からも、この結論はうなづけるものです。勿論この事故はとても重大なものであった事は事実ですが、公衆への健康被害について、かなり誇張され続けている事も事実です。

 それでは、このような事故が再び起こるのでしょうか? 幸にしてこの事故は極端に安全ルールを踏み外した事から生じたものであり、格納容器もなく、我国や西欧諸国では決して認可されない類のものです。ですから先づ起こり得ない、極めて特異なものと云っても良いでしょう。

 しかしながら、公衆にとって身近にないもの、未知の出来事、直接確かめられない災害などは、その情報をまずメデイアに頼らざるを得ません。その結果、チエルノブイリ事故のごときものがわが国でも生じるのでは?と思考が短絡しても不思議ではないでしょう。

 

 

4.風評被害

 それでは、公衆がメディアの誇張された報道に引きつけられる傾向にあり、それを信じてしまうのはどうしてでしょう。これを考えるにはメディアの特性をよく理解することです。即ちメディアというのは一つのビジネスであり視聴率を稼ぐことがビジネス成功の鍵です。

 従って関心を獲得し、即時性をもってインパクトのある概説を流すことがその性質上ないとは言えないでしょう。原子力に係る些細な出来事も、原子力発電と原子爆弾の区別もよく理解できず、目に見えない放射線の恐怖を頭に叩き込まれているかなり多くの公衆の関心を引く事が出来るということは、まさに不幸な事だと云わざるを得ません。これが行過ぎると、いわゆる“風評被害”に発展する事が多く見られることになります。これは、悪いニュースほど目につき易く影響力を持つ、その上悪いニュースほど信頼され易く長く持続するという性質を持つからであるといえましょう。内容をよく理解できなくとも“衝撃の”“空前の”というタイトルにおどらされてしまう危うさを、誰でも多かれ少なかれ持っているものです。それゆえ原子力発電所から受けた現実的な被害は、放射線によるものではなく風評によるものであるというのが、今の原子力をとりまく現状です。また、その被害者は発電所立地地域の住民であり、騒ぎ立てる消費地住民ではありません。

 一つの例として双葉郡の福島第一原子力発電所周辺での放射線レベルについて検討してみましょう。大多数の人々は発電所周辺ゆえに放射線レベルは高いと思われるでしょう。しかし過去10年間の測定データを見ると、主にセシウム−137が検出されるのですが、

@  日本の平均値よりも低い。

A  過去10年間のデータも、大きな変動はない。

B  その強さは、最新の測定器でやっと測れる程度。

という事がわかりました。これは当該発電所において様々なトラブルがあったにも拘らず、そういう値であった訳ですから、全くの優等生です。浜通りの野菜を食べないというなら、どこの野菜も食べられなくなります。また、浜通りの米や野菜を食べると体によくないなどという根も葉もない噂がひろがれば、風評被害が生じることになります。

 東海村のウラン加工会社JCOでの臨界事故は1999年に生じましたが、これなども最近の風評被害の典型例といえます。この事故は周辺公衆の健康や周辺環境に害を及ぼすようなものではありませんでした。しかしながら、農産物の買い控えで周辺農家が多大な損害を被るなど、地域住民に大きな影響をあたえたのです。

 

5.比べてみよう

 2章でもふれたように、原子力と他産業との比較も意味のあることです。大災害は自然災害の分野では毎年生じていますが、産業活動においてもガス爆発、石油火災などの大災害が毎年起きています。最悪のものは、インドのボハールで1984年に発生した化学事故で、2,000人の死者と20万人の負傷者を出しました。日本でも1986年、夕張炭鉱の爆発事故で、62名の死者を出しています。いづれにせよ、産業活動で大なり小なり危険を伴わないものなどありません。これらの中で、数値的には原子力発電に係る危険性が相当に良い結果(より安全)を示している事が事実なのです。したがって、一般公衆が感覚論ではなく、冷静に評価するならば、原子力発電は合理的に受け入れられる事になるでしょう。

 ここで統計とか、確率という話をしなければ原子力の優位性を説明し難いと言う問題について考えてみましょう。つまり、冷静に評価するという事は色んな物事の危険性(リスク)について比べてみると言うことです。このリスクを比べてみて評価しないならば

  原子力は事故で放射線被ばくの原因となり、がんになるのでダメ

  飛行機は事故で墜落するのでダメ

と言う風に、おおよそ世の中の物事はみんなダメになり、選択は個人の好みの問題となってしまいます。好き嫌いは個人の自由でありましょうが、それを賛成反対と直接結びつけてはならないと思います。あることについて適切に判断する為には、どれがどれだけ危険性があるのか?という事を調べ、それらのリスクを横並びにして眺めてみるという事が必要なのです。

 リスクとは、公衆にとって決して理解し難いものではありません。例えば「降雨確率が60%もあるのに、リスクをおかして観光に出かけました」という類のことで、人々には物事を確率とか、統計で判断できる素地は十分あります。

リスクは日常生活のあらゆる局面に存在しており、避ける事のできないものです。そして人々は経験的にリスクが最小となるようにという気持で暮らしているものです。自転車は危ないのでタクシーでゆこうとか、インフルエンザがはやっているので外出しないでおこうとか・・・・・。

しかし問題はそれらリスクを定量的に見ることが少ないという点にあり、原子力発電と他のリスクにどのような差があるのか、よく知られていない点にあります。

ここで紹介するデータは、「寿命の短縮」すなわち当該の行動などの危険性(リスク)によって米国人の寿命は平均的にどれだけ短縮されるものか?という指標を使ったもので、世の中によく普及されたものです。このデータの一部を紹介しましょう。(細かい数字の是非よりも、大まかな傾向について見てください。これは米国のコーエン博士のデータに基いています。)

  貧困であること・・・・・ 3,500日の寿命短縮

  喫煙(30本/日)・・・・2,600日  〃

  約15kgの肥満・・・・ 1,000日  〃

  自動車事故   ・・・・・  210日  〃

  大気汚染    ・・・・・   80日  〃

  溺死      ・・・・・   40日  〃

  自転車事故   ・・・・・    5日  〃

  航空機墜落   ・・・・・    1日  〃

これらに比べ、すべての電力を原子力発電に頼った場合の寿命短縮データは、米国のNRC(政府原子力規制委員会)の値で0.04日、同じく米国反原発民間団体UCS(憂慮する科学者同盟)が、かなり大き目に見積った値でも1.5日となっています。すなわち原子力発電のリスクというものは、私達が日常生活で体験するリスクに比べ、かなり小さいものになっているという点に着目いただきたいと思います。

ここで注意していただきたいのは、ここにあげた日常生活で体験するさまざまなリスクは統計上の値であり、原子力発電所の値は、実際に起こっていない潜在的なものを評価したものですから統計的に確認できないということです。ですから、それらを同じ俎板のうえで論じるときは、それなりの慎重さが必要です。なお、国際的な安全目標は「一般公衆が日常受けているリスクにくらべ、原子力発電所のリスクは十分ひくいこと」、とされており、その目標を満足するように製作、運転されているので、計算し評価すると上で述べたような小さな値になるのです。 

 コーエン博士は、「原子力発電はタバコ1本余計に吸うのと同じリスクである。その程度のリスクなのに原子力発電のメリットを享受するのはいやだというなら、それは科学技術の問題ではない」と言っています。また、原子力反対派は、“よくわからぬ原子力/放射線”をたてにとって、リスクというものを必要以上に誇張していると思うのですが、特に留意すべきは「エネルギー消費の少ない昔の生活に戻るべし」という論調の多いことです。しかし、データをみて明らかなように、貧困であることというのは、最も寿命を減らすことです。エネルギー消費の少ない開発途上国には平均寿命の短い(50才前後とか)国の多い事が、それを証明しています。誰も寿命を減らしてまでエネルギー消費を抑えることをしたくない以上、これからも地球上のエネルギー消費が増えつづけると予測せざるを得ないでしょう。要はエコロジストや反原発団体がそれに対応する現実的解決手段を持っていないという点に問題があると思われます。

 

6.おわりに

 結論的にいうならば、そもそもその実態を把握せずして原子力に反対、賛成ということは、いうべきではないと思いますが、小さい頃の学校教育も含めてエネルギーとか原子力は殆ど教えられて来なかったのも事実であります。反原子力団体やエコロジスト達はそのあたりを巧みについて根づいており、原子力反対の風潮は一つの世論になってきているように思えます。昨今、原子力にかかわるトラブルが多発しており、メデイアによってそれらがいささか過大に増幅されたりして、国の原子力政策への批判が拡大しているというのが現状のように思えます。

本稿では原子力の意義について細かく論じるに到らなかったのですが、少なくとも次の三点については、常識として頭の片隅にでも入れておくべきかと思います。

@  わが国は石油、石炭の9割以上を輸入にたよっている。

A  準国産エネルギーとして総発電量の三分の一(4500万kW)を占める原子力は、エネルギー安定供給のかぎを握っている。

B  原子力発電は、地球温暖化に悪影響を与えるとされる炭酸ガスを殆ど放出しない。またSOx(いおう酸化物―――酸性雨)やNOx(窒素酸化物―――呼吸器障害)なども放出しない。

それでは、エコロジストをはじめとする多くの人々の支持する新エネルギー、特にその中でも期待を集めている太陽光発電はどうでしょうか。これについてわが国はもっと力を入れるべきだという人が多いのですが、すでに全世界の45%もの導入量を誇り、まさに世界一です。しかしながら、たとえば100万kWの電力を生み出すためには、JR山手線の内側と同じ面積にパネルを設置しなければならないのです。したがって、何百万kWにまで普及させる事は、国民にとってそれなりの痛みと負担を伴うと予想されるので、大変難しい事と言わざるを得ません。新エネルギーは当分現在のエネルギーにとってかわるものにはなれないのです。

21世紀のわが国の進路を左右する重要テーマであるエネルギー問題は比較的楽観視される傾向にあり、大方の公衆にとって、それを学んだところで一銭の収入にもならのものです。勿論そういった公衆へのPRは誤解や偏見をなくするためにも、今後も継続されなければなりませんが、それにも増して緊急の課題は明日を担う、そして一銭の収入にならなくとも学ぶ義務のある子供たちに対する学校教育の実践でありましょう。子供たちは正しい常識を身につけ、自分たちの将来を自身で考えてゆけるようにしなければならないのです。

 

以上