朴勝俊氏の「原子力発電所の事故被害額試算」について

平成15年12月1日

                                  小笠原 英雄

                          (エネルギー問題に発言する会)

1.    はじめに

 京都産業大学経済学部専任講師の朴勝俊氏が関西電力株式会社の大飯原子力発電所3号機をモデルとして「チェルノブイリ事故」級の大事故が発生した際の被害額を計算してインターネットで公表され、共同通信社の配信記事(10月27日付)として報道各社に取り上げられた。事故の被害額460兆円、急性死亡1万7000人、ガンによる死亡41万人等の結論が披瀝されている。直ちに関西電力、発電所地元の大飯町等から抗議がよせられているが、何故信憑性の薄い計算を今の時点で実施して地元の民心や日本国民に対して不要な恐怖心を煽ろうとしておられるのか理解に苦しむところである。原子炉メーカーで、かつて原子力発電所の安全設計にも関与した者として幾つかの疑問を感じている。

 それらの疑問点を整理すると以下の3項目になる、即ち

(1)            今回の計算モデルによってチェルノブイリ事故の結果を説明できるのか

(2)            確率論による評価はなぜ考慮に値しないのか

(3)            そもそも今回の試算の目的とするところは何か

について、疑問とするところを述べてみたい。

 

2.    チェルノブイリ事故とは

 1986年4月26日に旧ソ連のキエフ市の北方約130キロメートルにあるチェルノブイリ4号炉でご承知のように未曾有の歴史的大事故が発生した。この原子炉は旧ソ連製の黒鉛減速軽水冷却沸騰水型炉(RBMK-1000)で、今日世界で広く使われている軽水炉とは全く異なるものである。原子炉なら多少の相違はあるものの本質は変わらないはずとの異論が当然出てきそうであるが、材料や、炉心システムの選択等により原子炉の特性は著しく影響を受けるのである。RBMK炉は原爆の基本材である良質のプルトニウムを効率良く作ることと発電機能を両立させる為に安全性、運転性が犠牲になっている。RBMK-1000はボイド係数が正で、かつその絶対値が大きく、低出力の運転状態では出力係数が正すなわち自己制御性がないため僅かな外乱によって容易に出力の急上昇に至るおそれがある。また、緊急時の制御棒の挿入速度が極めて遅く、その上制御棒終端部に黒鉛製のフォロワーが付いているため条件によっては制御棒挿入によって出力が上昇するおそれがあった。自動車に例えると、スピードが遅いときはブレーキがアクセルに変わり、しかもロケット並の加速に至るおそれがあって、運転制御が困難になることに他ならない。このような原子炉において、低出力における長時間の試験が行われていたことも問題であった。即ちRBMK-1000炉は、出力が低い場合には、対応が困難な反応度事故が起きやすい炉であり、運転責任者が炉停止操作を初めてから約20秒程度の間に炉本体の壊滅的破壊に至っている。この事故の場合、運転者が炉の危険な特性を十分に知らされないまま運転していたふしすらある。

 しかし、このような大事故にも拘わらず急性死亡等の災害規模は割合に小さかったと考えられる。事態収集のための放射線被曝による急性放射線障害は職員と消防士約200名に現れたのみで、そのうち死亡は31名であった。死亡者は消火作業の為の「決死隊」6名と、事故の際に原子炉本体近傍に居た原発職員及び出張者にほとんど限定されており一般住民の犠牲者は皆無であった。また、約13万5000人の周辺住民が避難し、晩発性傷害として小児甲状腺癌がみられるとの報告があるが、今回朴講師が試算された結果との乖離は甚だしい、どう説明出来るのであろうか。原子炉の規模としては、大飯3号機は118万キロワット、チェルノブイリ4号機が100万キロワットとほぼ同程度である。また、原子炉が内蔵する放射性物質の量は運転時間の関数であるが、朴氏によると大飯3号機の場合の放射能放出推定値はチェルノブイリ事故の場合に近いとのことなので両者の被害の差は大気拡散の程度の違いと、人口分布及び災害敷居値モデルの問題になる。本当にそれだけで、一般住民の急性死亡の数が1万7000人と事実上ゼロ人の開きになるのであろうか。チェルノブイリ事故も厳たる一つのデータである。WASH-1400以降の研究の成果をふまえて、この貴重なデータを説明できるモデルで評価すべきではないだろうか。

 

3.確率論による評価はなぜ考慮に値しないのか

 朴講師は試算の動機として、確率論を加味せず、決定論的に評価することとされている。前項で述べたような災害ポテンシャルの高いチェルノブイリ炉のような原子炉と日本で運転している発電所を正当に対比するには確率論的手法に拠らざるを得ないであろう。原子炉に限らず、どの程度安全なのかについて比較する為には確率論に拠る以外にない。我々の社会生活における判断基準として確率論的な考え方は随所に、陽に陰に作用している。保険システムには当然統計データが利用せれており、確率論的考え方が背後に存在する。年間一万人に近い事故死とより多くの健康障害や物的損失をもたらしている自動車の利用についても、確率論的判断によりリスクにメリットが勝るとの判断が働き、便益を買って利用している。社会的に大きい便益を提供出来ると考えられる原子力発電のようなものを決定論のみで評価してすませて良いものであろうか。

 原子力発電所の計画においては、(1)材料の選定、機器・設備の建設、検査。運転管理等の建設に関わる全ての段階でトラブルが生じないように品質管理を行う事になっている。しかし、これらの作業には人間が関与するわけであり、ある程度の頻度でトラブルや故障が生じるであろう。そこで、(2)トラブルや故障が発生してもそれが事故に発展しないように設計やシステム選定の段階で種々な考慮が行われている。安全上重要な機器や系統は複数個設備する「多重性」の考え方、それを原理の異なる機器やシステムにより達成する「多様性」の考え方などがその例である。また機器・システムの選定については、可能な限りフェールセーフの思想によっており、トラブル現象が収まる方向へ事態が推移するように努めている。炉停止機能、冷却機能のような重要な機能には特に注意が払われている。緊急炉心冷却系(ECCS)等の工学的安全設備は原子力発電所に特徴的な重要設備である。また、(3)事故に至った場合には、その拡大を阻止し、敷地外の一般の方々に放射線災害を及ぼさないように対策する必要がある。日本の原子力発電所の場合は米国の基本設計に則り原子炉本体を耐圧構造の原子炉格納容器で覆い、例え原子炉一次系から放射能が漏出しても原子炉格納容器外に漏れないように対策されている。このような三段階の安全防護の対策を「深層防護」の考え方と呼んでいるが、これらの対策によって、原子力発電所のリスクは極めて小さいレベルに抑え込まれており、大飯3号機の炉心損傷確率は一千万分の一のオーダーである。即ち、確率論による以外に「深層防護」の効果を評価する事はできない。

 さらに原子炉の重大な炉心損傷事故(シビアアクシデント:SA)の場合にはアクシデントマネジメント(AM)と称する対策を各発電所で運用計画している。これの評価には、炉心の運転停止と冷却機能の強化を対象としたレベル1PSAと原子炉格納容器の健全性確保対策の強化を対象としたレベル2PSAとが認められており、設計で考慮されていない設備で利用可能なものを(例えば緊急時の水源としては消火用の水源を利用すること等が認められている)評価の条件に加えて評価している。大飯3号機の場合は格納容器が損傷して外部に放射性物質が漏れ出る確率は総合的に(AM整備後で)炉年当たり一億分の一のオーダーと考えられている(上記のAMにより約8割低減)。

 厚生労働省の「人口動態統計」(2001年版)によると年当たりの交通事故死は約一万人に一人とのことである。現在日本には約50機の原子力発電所が稼働しているので、簡単のために平均のSA時の原子炉格納容器の損傷頻度が炉年あたり一億分の一と仮定するなら、二百万年に一度の発生確率になる。さらにチェルノブイリ事故のRBMK-1000の場合は耐圧構造の原子炉格納容器を有していなかったうえ、瞬時の爆発により破壊されたが、軽水炉の場合は耐圧構造の原子炉格納容器を設備しており、かつ炉心損傷事故は数時間にわたって徐々に進行することを想定すれば良いため、一般住民の急性被爆による災害は無視出来るのではないかと考えられる。事実、1979年に米国で発生したTMI2号機の事故の場合は原子炉格納容器のお陰でサイト外への放射性物質の漏洩・拡散は僅かの量にとどまり、一般への影響はほとんどなかった。交通事故死等の社会に容認されているリスクと比較してもその社会的便益性を考慮すれば、特に忌避すべき重大性は感じられないが如何であろう。

 

4.朴論文の目的は何か

 朴講師の試算結果を分析してみると、同じ方法でチェルノブイリ事故を再現出来るとは思えない。そのように信憑性の薄い解析によって大飯町の住民やその他日本人に言いしれぬ恐怖感を与えるような結果をなぜ公表したのか、理解に苦しむ。原子力保険額の見直しに一石を投じようとの意図であろうか。そのためには、WASH-1400以来築かれてきた研究の成果を吸収して、まずチェルノブイリ事故の追試計算を行い公表されているデータをある程度説明出来ることが緊要であるように思う。

 原子炉のシビアアクシデントに関しては、確率論に拠る評価法の進歩、機器等の故障データの蓄積、関連現象に関する実験・試験データの蓄積等により、WASU-1400時点に比較して格段の技術進歩をみている。アクシデントマネジマント対策の検討も進んでおり、炉心の大幅な損傷事故については現実的驚異とは考えられない状況と認識している。そのような現在の時点で、朴講師の今回の論文のような一昔前のレベルの議論がむしかえされるのは極めて残念である。